江戸時代まで静かな漁村だった横浜は、幕末の開港以降、貿易の拠点として発展。1889年には「市制」が敷かれました。さらに京浜工業地帯の中でも鉄鋼や造船といった重工業が盛んとなり、大勢の労働者と家族が住むようになりました。1923年には関東大震災が発生し、2万人を超える犠牲者を出しました。しかし、その後は順調に復興し太平洋戦争中の1942年には、人口が100万人を超える大都市となっていました。
1945年3月の東京大空襲を皮切りに本格的に始まった市民を攻撃対象とした無差別爆撃が横浜市に及んだのは、同年5月29日の白昼のことでした。500機を超えるB−29と護衛戦闘機100機以上が、横浜の中心部に大量の焼夷弾を投下。一気に火災が広がり、炎が町の中心部を飲み込んでいきました。住民だけでなく通勤や通学途中の人々が逃げ惑う大混乱となり、多くの命が失われました。住民以外の犠牲者も多く、その数は正確には分かっていません。推計では8000人から1万人に上るといわれています。
東神奈川駅の電車の中で攻撃を受けた人、炎に追われて逃げ惑い家族を亡くした人などの証言をもとに大都市を壊滅させた横浜大空襲に迫ります。
証言動画
この空襲を体験した方のインタビューをご覧ください。
インタビュー記事
離してしまった母の手=神倉稔さん
「5月29日の朝は、雲一つない快晴でした。青空です。五月晴れって言うんですか、本当に太陽がさんさんと降っているときですね」
神倉稔さん(85)は、当時暮らしていた横浜中心街が焼き尽くされた1945年の空襲を振り返る。
好天だったその日は、午前8時過ぎから始まった米軍の焼夷弾を使った無差別爆撃により一変。瞬く間にあたり一面は黒煙に覆われ、太陽の光は遮られ、「夜中っていうか、深夜というか。真っ暗」な状態になった。
神倉さんは当時13歳。兄2人は勤労動員で川崎へ、妹2人は箱根に疎開していた。洋服の仕立て人をしていた父親は仕事で不在だったため、空襲警報を受け、近くの防空壕に共に入ったのは母ふささんと、6歳下の弟理男さんだけだった。しかし、防空壕に入ってしばらくすると...。
「トントントンと警防団の人が(防空壕の扉を)やって、『早く逃げろ』っていう声がかかって。扉を開けて周りを見ますともう四方から黒煙がもうもう上がっているわけですね」
3人は有事の際の避難場所とされていた自宅から約500メートルの高台・野毛山を目指した。
「雨あられっていうか、焼夷弾が降り注いでいるわけです。本当に怖いです。直撃するんじゃないかと思って。上を向いたってどっから落っこってくるか分かりませんから、上を見る勇気もないです。(焼夷弾は)『ヒューヒュー』っていう音ですね。ちょうどロケット花火です。(民家の)屋根を貫通する音は『ピシッ』って短い音。すぐ着火しますから、ガラス窓越しに部屋がぶわっと赤く燃え上がってしまう」
火の粉が舞う中、母の手を握り、野毛山へ向かう坂を上った神倉さん。ところが、途中で行く手を遮るように焼夷弾が落下。急遽、神倉さんの母校でもあった東国民学校(現・横浜市立東小学校)に入った。流れ込む人の波。途中、固く握っていたはずの母の手を離してしまう。
神倉さんは一階の音楽室へ入ったが、校舎内にも火が燃え広がったため、小さい窓から外へ滑り出た。校舎や周囲の住宅などが激しく燃え上がる中、校庭中央にあったマンホール付近へ。幸いにもマンホールには雨水が溜まっており、5、6人の人たちと互いの火の粉を払い、水を掛け合って熱さを凌いだ。
火の手が収まり、校舎内を見ようとするも熱さで中には入れず。ただ、激しく燃えたためか、白骨化した遺体を見たことは忘れない。
「お葬式のとき、焼き場に行ってお骨を拾うようなときと同じように白骨になっちゃっているんですよ。本当に、火の勢いって恐ろしい」
神倉さんは三日三晩、母と弟を探した。「校舎に入ったことはもう間違いないんですけど、いわゆる一縷の望みって言いますか、外に逃げ延びてるんじゃないかっていうような淡い望みでした。(それでも)身に着けている遺留品は何一つありません。母と弟の苦しみを思いますと...再婚話も父にありましたけど、私は頑として反対して、今日まで母のない生活をしてきました」
神倉さんは今、東小学校の生徒に向け、定期的に当時の体験を話している。「まず命の大切さっていうことを最優先に。その次にご両親の大切さですね。何で(母の)手を離してしまったのか。何て言うんですか。何とも言えない自責の念と悲しみがあります」
神倉さんはハンカチで涙をぬぐった。「きょうは泣くまいと思ってたんですけど、当時の惨状を思い出すと......」
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