宮城県仙台市は、太平洋戦争当時で人口が30万人、東京以北で最大の都市でした。東北帝国大学、旧制二高など高等教育機関があり「学都仙台」と呼ばれ、同時に陸軍第二師団がおかれ「軍都」でもありました。そうした東北の中心都市でありながら、東京や横浜、大阪、神戸などの大都市が次々に空襲の被害が続く中、7月の初旬まで艦載機による散発的な銃爆撃があるだけでした。
しかし、7月10日午前0時、突如123機のB-29の編隊が襲いかかりました。目標は市街地と住宅街を標的にした無差別爆撃でした。2時間にわたって1万発以上の焼夷弾が投下され、市街地のほとんどが炎に包まれました。空襲が始まったとき街は寝静まっており、突然の空襲警報に避難は間に合わず、人々は自宅や近隣の小規模な防空壕に逃げ込みましたが、激しい火焔に包まれて防空壕のなかにいながら多くの人が焼死しました。死者は1000人以上、資料の中には2700人を超えるとするものもあります。
「杜の都」と呼ばれた緑あふれた都市がわずか2時間で焼け野原になった苛酷な空襲を、かろうじて逃げ延びた人々の証言で見つめます。
証言動画
この空襲を体験した方のインタビューをご覧ください。
インタビュー記事
空襲の後遺症、今も=伊達忠敏さん
「ここです。今でも触るとちょっと、こそばゆいんです。深かったんでないですかね」―。
今も仙台市に暮らす伊達忠敏さん(88)は空襲で負傷した左腿をさすりながら語る。
「杜の都」として知られる仙台は戦時中、第二師団が駐屯する軍都だった。所属部隊が満州事変やガダルカナルなど主要な戦場に投入されるほどの司令部がありながら、敗色が濃くなり、1945年3月10日に東京が大空襲に見舞われた以降も直接的な被害はなかった。
41年12月の開戦後も映画館などの娯楽施設も運営されていた。街の中心部に住み、当時国民学校6年生だった伊達さんも「街は平和でしたよ。戦争の危機感というのは感じてなかったです。正直言って」と振り返る。
定期的にバケツリレーなど防火訓練が行われていた記憶はあるが「私の目から見ると、何か遊んでいるような感じ。これで本当に火が消せるのかな、みたいな感じで見ていました」。家に設けられた防空壕も「物置でしたね。焼けて困るものを入れておくとか。あんまり入って逃げるという意識はなかったわね」
「杜の都」が「灰の街」と化したのは45年7月10日未明。
伊達さんは深夜、空襲警報で起きた。「飛び起きて、建前上火を消すと思ったんだよね。でも、まだうちのあたりは燃えてなかったし、南の方はちょっと明るいかな、みたいな感じで。そうしたら親父が『もう駄目だから逃げよう』と。それで逃げたんですよ」
「この辺りはまだ静かで、本当にあの静けさというのは何といったら良いかな。今でも不思議な静けさですね。時々『ボーン、ボーン』と何かが破裂する音はしましたけどね。でもすごく静かでした」
火の手は徐々に街中に。有名な料亭など市のシンボルが勢いよく燃えているのを横目に、両親、兄、兄嫁らと北へ向かって逃げた。
逃げ惑う大勢の住民。人ごみの中、伊達さんだけ家族とはぐれてしまう。音がしては伏せ、また歩いては伏せ。そうこうするうちに焼夷弾の破片らしきものが左足の腿に刺さった。「電気がしびれたような。痛みも何もなかったんだけど、触ってみたらゴロゴロしているから、折れ釘みたいなやつが入っていたんですね。それを一応取って」
起き上がると2メートルほど前には首のない若い女性とみられる遺体が。「首がなかった。首に(焼夷弾が)当たったんじゃないですかね。幸か不幸か。亡くなった人には申し訳ないんだけど、そこに当たったから不発だったんじゃないですかね。だから破裂しないで済んだ」
伊達さんは続ける。
「(遺体を見ても)恐怖心も何もなかった。何も気持ちの中にないというのがね、真っ白だとよく言うけど、ああいう状態を言うのかな」
その後、家族と合流した伊達さん。歩いたり、汽車に乗ったりして移動し、怪我の処置ができたのは4日後だった。「すっかり膿んでいまして。麻酔も何もしないでいじくられて。そうしたら中からこんな小さなかけらが出てきた。あれ、取らなかったら本当に足が腐って切断するようになったかもしれません」
伊達さんは自身の怪我以外にも心の痛手として残っているエピソードがあるという。
それは、空襲3日前に伊達さんの家に梅干をもらいに来た老婆の話。「息子が戦地から帰還してくるからおにぎりを作ってあげたい」との趣旨だった。しかし、伊達さんの父親は町内の取りまとめ役で、すでに老婆の息子が亡くなっていることを知っていた。「お袋も同情して梅干はやったんですけれども、帰ってくるはずないんです」
「ああ、やっぱり戦争ってこういうものかなと思いました。ああいう苦しみ、悲しみはもう。やっぱり、戦争は絶対駄目だということですね」
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