日本中を焼け野原にした大型爆撃機B-29による戦略爆撃。
北海道は、このB-29の航続距離圏外だったものの、戦争末期に米空母から発進した艦載機による激しい銃爆撃や艦砲射撃を受けました。1945年7月14日から15日にかけてのことです。
この二日間、空母艦載機は釧路、根室を中心に函館、帯広などの工場群や鉄道や橋梁など交通の要衝を標的に銃爆撃を加えました。本州と結ぶ青函連絡船も攻撃され、運行していた全ての船が被害を受けました。二日間でおよそ2,000人の死者が出たとされています。
一方、室蘭は7月15日に米艦船による艦砲射撃を浴びました。製鉄所や軍需工場が標的になったのです。砲弾は住宅地に降り注ぎ500人近い犠牲者が出ました。
証言動画
この空襲を体験した方のインタビューをご覧ください。
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オレンジ色の火の海だった谷藤栄子さん
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インタビュー記事
戦争なき日常は「幻想」=谷藤栄子さん
「戦争というのは『あ、戦争が来る来る』と来ないんです。みんなわりとのんきに暮らしているんですね。『そんなひどいことがあるはずない』みたいな。でも、それは幻想なんですよね」
根室で生まれ育ち、1945年7月の根室空襲を体験した谷藤栄子さん(91)は語る。
1941年12月8日、日本軍が真珠湾攻撃を仕掛けてから始まった太平洋戦争。谷藤さんは、学校で開戦を知った。
「ある朝、急に校長先生が全校生徒を集めてそういうことが始まったと。(それまでは)戦争が遠かったんですよ。本当にはるか向こうで。出征兵士なんかを送ることはしましたけど、私たちにはちょっと遠い感じで」
戦況が悪化する中も、終戦直前まで空襲や艦砲射撃などの実被害を受けてこなかった北海道。物資の不足などの影響はあったものの、根室にいた谷藤さんは「(戦争の)実感がなかった」という。1942年には京都、東京などをめぐる修学旅行にも行った。
翌43年に学校を卒業した谷藤さんは北海道根室支庁(当時)で働き始めた。若い男性が次々と出征したため業務に携わる人員が減り、谷藤さんは臨時召集令状(赤紙)を地域ごとに振り分ける作業に従事することに。
「真っ赤ではなくて、ピンク色でした。でも、そのときは私もまだ戦争の実態というものが分からないし、ただ仕事としてやっていたという感じなんです。後になって考えてみたら、届けた人のうちどのくらいの人がちゃんと元気で帰れたかなと」
働き始めてからも、根室では警戒警報や空襲警報はあまりなかったという。
しかし、ついに根室にもその日が。
「根室があんなひどい空襲に遭うなんて思っていなかったんですね。札幌も旭川も大きな都市が全然(被害が)ありませんでしたから、みんなそういうのんきな気分で半分いたところに(7月の)14日と15日に空襲があって。14日は港の方だけだったんですけど、15日は朝5時過ぎでしたかね、空襲警報で、支庁に大急ぎで行ったんです」
リュックサックを背負い、防空頭巾を被って支庁に着くと、上空には敵機が。急いで、「たこつぼ」と呼ばれる一人用の防空壕へ逃げ込んだ。「入ったとたんに『ヒュッ』と機銃のあれ(銃弾)がきた記憶があります。そして土のところに刺さったみたいな」
銃撃や爆撃が一瞬収まった間により大きい防空壕へ避難した。
「それから空襲が激しくなって。『ヒュー』って音がするんですね。そして『ドカーン』って音が聞こえてくると今死ぬか、今死ぬか、と思いました。みんな鼓膜が破れるから耳を押さえてかがんで。あの時は本当に生きた心地がしなかったですね」
支庁は、中心市街地を見下ろせる丘の上にあった。空襲が収まり、壕から出た谷藤さんが支庁の窓から街の中心街を見てみると。
「全部炎でした。不謹慎な言い方をすると、本当に華麗な感じのオレンジ色の火の海でした」
その夜、支庁の職員らは街から少し離れた軍の壕で夜を明かした。「もう眠れるなんてもんじゃなかったですよね。なんとなく興奮状態で。でも、寒かったのは覚えています」
幸いにも根室にいた谷藤さんの家族に被害はなかった。それでも「あそこの人が亡くなったとか、町役場の何々さんの奥さんが病院近くでばらばらになっていたとか、そういうのは聞きました」
北海道各地が空襲被害に遭ってから約1ヵ月後、終戦。玉音放送ははっきり聞き取れなかったが、戦争に負けたことは分かった。
「すごい解放感がありました。明かりをつけても大丈夫だってことになって。安堵感というか。だってもう死ぬと思っていましたら。私たちはきっと死ぬんだと思っていましたから」
戦後70年以上が経ち、戦争体験世代は減った。
「何か話しても『本当に響いているのかな』っていう感じはあります。私たちが日露戦争の話を聞いているような感じじゃないかなという感じがしますね。仕方ないことなんでしょうけど。(それでも)本当にしつこいくらい繰り返しそういうことを強調していかないと、多分通じないだろうし」
谷藤さんは、若い世代に対し戦争や平和の尊さについて「考えることをやめないでもらいたい」と訴える。
「日常に流されて、どうしても1日無事に過ぎれば良いみたいな感じになりますけど、その中でも考えてほしいですね。それが私たちの遺言みたいな感じですね」
取材:2016年11月、写真:山本宏樹そのほかの空襲記事
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