太平洋戦争が始まった1941年時点で、日本海軍はアジア太平洋地域で最大規模を誇っていました。その拠点が広島県の呉市でした。多くの海軍施設、造船所、兵器工場、海軍兵学校や海兵団などの将兵の養成機関などが集中していたのです。
日本海軍は敗退を重ね壊滅状態になっていきますが、呉の軍港には1945年にも一部の艦艇が停泊していました。
1945年3月、連合軍は、日本海軍の息の根を止めようと呉に襲いかかってきました。まず、軍港に停泊していた艦艇への激しい空襲が行われました。これに対して日本側も激しく応戦し、次第に呉市全体が戦場と化し、市民も巻き込まれていきました。
3月以降も空母艦載機による軍港や兵器工場への銃爆撃が行われ、7月1日から2日にかけてはマリアナ諸島からやってきた150機のB-29が市街地に対して無差別に爆撃をしました。この空襲で呉の市街地は焼け野原になり、2000人を超す市民が犠牲になりました。3月から終戦までの空襲全体の犠牲者は3700人に上りました。
海軍の街で生きてきた人々がどんなことに巻き込まれたのかを見つめます。
証言動画
この空襲を体験した方のインタビューをご覧ください。
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動員先で襲われた銃爆撃大久保圭子さん
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少女たちを狙った機銃掃射斉藤久仁子さん
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歌で見送った特攻出撃の戦艦大和西迫マツ子さん
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防空壕の中の阿鼻叫喚宮本澄枝さん
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さく裂する砲弾〜戦場になった呉上空朝倉邦夫さん
インタビュー記事
防空壕で500人が犠牲に=宮本澄枝さん
「『助けて助けて、シゲコ、しっかりせい。テルちゃん、しっかりせい。お父ちゃん、苦しい苦しい、助けて、お水』いうても親もどうすることもできんじゃないですか。もう阿鼻叫喚」
1945年7月1日深夜、広島県呉市の防空壕の中。まっ暗がりの中の修羅場を宮本澄枝さん(90歳)は今もありありと憶えている。
宮本さんは、当時呉市の繁華街近くの住宅街に住んでいた。女学校を卒業したばかりで栄養士として病院で働いていた。
45年3月に始まった呉への空襲は主に空母艦載機を中心に艦船や軍事施設を狙ったものだった。しかし、7月1日の空襲は全く性質が異なった。B−29の大編隊による市街地を含む無差別爆撃だったのだ。
この日の夜、これまでとは異なる爆音が呉の町に響き、宮本さんは、自宅から300メートルほどのにあった防空壕に両親と妹と4人で向かった。地域を挙げて作り上げていた巨大な防空壕。斜面に横穴を掘って、内部を大きくくり貫き1000人は収容できる規模があった。
防空壕には続々と人々が押し寄せ、すぐにすし詰め状態に。焼夷弾が落ち始め、呉の市街地はあっという間に炎に包まれた。防空壕の入り口前にあった家にも火がついて、煙と火の粉が壕内に入ってきた。
ぎっしりと入っている人々は息苦しさからパニック状態に。さらに壕の中は停電で出口も分からない。子供たちは泣き出す。人々の悲鳴がこだまする。
「苦しい苦しい。お父ちゃん助けて、お母ちゃん助けて」
人の上に人がよじ上り、逃げ場を求めた。「私の頭の上を何人もほふく前進するんです、時々かかとで顔をバーンて蹴られるんです」
その苦しさの中で、なぜか人々が唄を歌ったと言う。
「誰かが『海行かばを歌って最後の別れをしましょう』と言ったんです。苦しい中大合唱になったんです、『海行かば。水漬く屍』って言う唄。『うーみー』ってみんな泣きながら歌ったんです。最初は小声だったけど、これがこの世の最後の唄だから大合唱で全曲歌ったんです。そして、息絶えて行ったんです」
宮本さんは息苦しさから何度も意識を失った。しかし、「私は、何度も人に顔を蹴られてその度に息を吹き返し、這ってなんとか出入り口にたどり着いたんです」
宮本さんは、父母を探しに家の方向に向かうことにした。あたり一帯は煙がくすぶっていた。自宅のあったあたりにたどり着くも、家の跡形はなかった。ただ、蔵の敷石だけが残っていた。
空襲から数日して、壕に行ったところ、壕の外に遺体が並べられていた。5人を一組にした列がいくつもいくつもできていた。乳幼児の死体も並べられており、むしろがかけられていた。
「つらかったねえ」と言いながら親が小さなおにぎりと水を供えて号泣していた、と言う。
この防空壕での死者は500人以上、身元の分からない人も多かった。戦後、宮本さんの父親が犠牲者を弔うために防空壕のそばにお地蔵さまを建てた。自身も父の活動を継ぎ、約40年に渡って毎年7月1日、自らが中心となり、地域住民らとともに慰霊の式典を行ってきた。
2015年、宮本さんは高齢のため、同年7月を最後の慰霊祭にするつもりでいた。しかし、思いもよらないことが。
これまで空襲の語り部として講演をしたことのある呉市立和庄中学校の3年生が宮本さんの活動を引き継いで自主的に慰霊祭を行ってくれたのだ。
「ありがたいですよね、お参りしてくれたら嬉しい。私は、これからも個人的には来ますよ。あの、悶え苦しんだ阿鼻叫喚は忘れることができないもの。呉の片隅で1000人もの人が亡くなったと言うことだけは(後世に)知ってほしい。ここにお参りしたら、戦争があったらいけないと言うことが分かってもらえないかなと思ってね」
宮本さんは、そう話しながら、お地蔵さまに手を合わせた。
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