鹿児島県は、県本土から南西諸島まで南北600キロという広い県域を持ちます。そして、太平洋戦末期米軍との激しい地上戦となった沖縄に向き合ういわば「最前線」となりました。そのために激しい空襲を全域でしかも長期にわたって何度も受けたのです。
那覇が焼け野原になった1944年10月10日の「10・10空襲」では、鹿児島県の奄美大島や徳之島も銃爆撃の被害を受け、これを皮切りに、奄美諸島全体が空母艦載機の空襲を受けました。米軍の沖縄上陸が迫ると空襲は鹿児島県本土に及ぶようになりました。鹿児島県本土には特攻基地が数多くあり、米軍は日本の攻撃力をそごうと特攻基地を中心に銃爆撃を行ったのです。さらに、戦争末期になると大型爆撃機B-29による市街地への無差別爆撃を行われるようになり、特に6月17日と7月20日の鹿児島市への空襲は過酷で二日間で3,000人もの市民の命が奪われました。
鹿児島市や大規模な特攻基地のあった鹿屋市、種子島で空襲を体験した人々の証言で鹿児島の空襲を見つめます。
証言動画
この空襲を体験した方のインタビューをご覧ください。
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家族7人を奪った鹿児島大空襲春成幸男さん
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特攻基地への攻撃が市街地にも立元良三さん
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種子島空襲で焼け落ちた我が家名越和子さん
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幼い弟の命を奪った種子島空襲山下和子さん
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勤労動員で負傷兵の手術や看護を体験下村タミ子さん
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戦争の記憶を次世代へ山下晴美さん
インタビュー記事
家族7人死亡「自責の70年」=春成幸男さん
「『おまえもこれが最後かもしれんから一杯ぐらいお酒を飲んでくれよ』と、父親が酒を僕につごうとしたんですよね。僕に飲めと。僕はそのときお酒が飲めないんですよ。それで、『お父さん、申し訳ないけど僕は酒は飲めないんだ』と。『そんなこと言うな』としつこく言われたが、飲まなかった、それが悔やまれてならない。父親のあの酒を一杯飲んでおけばよかったなと」
春成幸男さん(91)。70年以上前のやりとりを忘れない。
1944年春、春成さんは故郷・鹿児島を離れ、東京の高等師範学校に通い始めた。時は戦争末期、文系の仲間が次々と出兵し、45年3月の東京大空襲など戦況の悪化を目の当たりにした。理系だった春成さんも、「日本のために何かせんといかん。銃を持って軍人として第一線に立ちたい」と嘆願書を提出。将校を養成する陸軍予備士官学校へ入ることとなった。
入校前に故郷に別れを、との計らいで6月上旬に鹿児島に帰郷。いよいよ、東京に経つという前の晩、家族8人が揃って食事会をした。悲壮感はなく、「あんた頑張りなさいよという調子」だったという。
春成さんの実家があった鹿児島市中心部を空襲が襲ったのはその夜だ。
深夜、空襲に気付いた母が春成さんを起こしに来た。しかし、東京で連日の激しい空襲を経験していた春成さんはしばらく床から離れようとしなかった。
いよいよ煙が家の中にも入りだし、家族全員で近くの防空壕へ。ところが、商人だった父が仕事の書類を家に忘れたことに気付く。「僕が取ってくるよ」。
しかし、春成さんが自宅へ着いたとたん、火柱がバーンと走った。「焼夷弾が落っこちた瞬間だろう」。防空壕に戻るも、すでに人で溢れ、入り口付近の人は、燃えていた。
「どうしたらいいか分からなくて...。少し大きい通りに馬が走っていて。どう思ったのか知らんけど、馬の後を走り続けた記憶があります」
気が付くと市の中心部にある照国神社の境内にいた。
明け方、被害の様子が明らかに。「(街は)焼けるだけ焼けて、焼けた後の白い煙で街の中が見えないような状況でした」。とにかく防空壕に駆け戻った。
「防空壕に着いたら、入り口がブスブス燃えているんです」。周囲の人と火を消し、扉をこじ開けた。すると、「隙間のないくらい、40人くらいの人間がびーっと立ったままで」
一人ひとりを防空壕から運び出した。
「僕の家族は真ん中にいました。全員道路に並べて、真っ先にお袋に飛びついて、揺すったりなんかしましたけど、結局返答なし。警防団の人に『全員だめだ』と言われてがっくりきましたね。本当に表現のしようがない。悲しみとか何とかもうないんですよ」
人の手を借り、7人の遺体を火葬場に運んだ春成さん。交通機関も機能しないなか、10キロほど離れた母方の実家まで歩いた。
「(それまでは)途方に暮れる余裕もないし、とにかく夢中だったんだろうと思いますね」祖母の顔を見たとき、初めて泣いた。
「もう生きる気概もなかった」、と振り返る春成さんは、自分自身を責めた。
「第一に自分が東京から帰ってこなければ家族は疎開して死ななかったのに。なぜ鹿児島に帰ってきたんだと。第二に、母親が起こしに来たときにすぐに飛び起きておれば、まだ逃げる方策がほかにあったんじゃないか。三番目は、なぜトランクを家に取りに帰ったのか。家族と一緒に死ぬべきだったのではなかったか、と。この三つのことがずっと頭から離れなかったですね」
「自分が殺したんだと。家族は自分が殺したんだ」。この気持ちは今でも変わらないという。
春成さんは仏壇に向かうことを日課としている。
「起きては仏さんを拝むし、寝るときは仏さんに拝まなきゃ寝られないし。寝てもしばらくは思い出すし、ずっと91歳まで続いていますね。朝晩。とにかく『申し訳なかった』、『申し訳なかった』といって仏さんに頭を下げる」
そういえば―。インタビューの最後、春成さんは思い出したように語りだした。
最後となった食事会で、妹2人から「●●さんのことが好きなんでしょう」とおちょくられ、口論になったのだという。
「笑い話だけど、そんな会話でしたよ。本当に日常の...」
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