2011年の東日本大震災で1,145人の死者・行方不明者を出した岩手県釜石市。太平洋戦争末期には連合軍の二度にわたる艦砲射撃によって大きな被害を受けました。
標的になったのは、戦争遂行に欠かせない鉄鋼を生産する釜石製鉄所でした。この艦砲射撃は、製鉄所だけでなく市街地や住宅街にも砲弾が降り注ぎ、家々が吹き飛ばされ、1,000人以上の人々が犠牲になったと言われています。
海から突然巨大な砲弾が飛んできて、すべてを吹き飛ばす。それは一体どんな出来事だったのでしょうか。
証言動画
この空襲を体験した方のインタビューをご覧ください。
インタビュー記事
戦争と津波「やっぱり違う」=千田ハルさん
「夏のね、ぎらぎらと暑い日に外に出たりすると『ああ、こんな日だったな』って思うんです」
岩手県釜石市に暮らす千田ハルさん(92)は語る。
終戦間近の1945年の7月と8月、釜石市は2度に渡って連合軍艦隊による艦砲射撃を浴びた。
1回目は7月14日、地元経済の中心だった製鉄所と海に近い市街地が狙われた。タイピストだった千田さんも当時は製鉄所に勤めていた。
「当日は朝から警戒警報があって、もう昼ってときに空襲警報が発令されて。釜石は軍事工場を抱えている割に始めての空襲警報だったんです。それでびっくりしてね」
決められていた防空壕まで行く余裕もなく近場の防空壕に駆け込むと、聞いたことがないような爆発音が。
「雷がいくつも一緒に落ちるような地響きをたててね。一定の間隔で何回も何回も途切れなく来るので本当に終わりがないんじゃないかと思うくらい続いて」
当たりが静寂に包まれ、恐る恐る外に出てみると工場の大きな煙突が5本倒れたり折れたりしていた。「(中心街を向くと)何も見えなくて、ただ黒い煙がもうもうと立ち込めてね。死んだ人も怪我した人も周りにはいなかったけど、凄いショックでした」
2回目の艦砲射撃は8月9日。内陸にある製鉄所の社宅など、より広範な地域が対象となった。1回目のとき、防空壕で励ましあった友人も、幼い弟とともに自宅の押入れの中で亡くなった。
「1回目のときは『まだ頑張るぞ』『当然日本が勝つ』と思っていた。けど、2回目のほうで気持ちが崩れた」
「戦争というのはこういう無残な結果になるんだってこととか、それを私たちが自覚して(戦争の)ない世の中にするのはどうしたらいいかってことをね、分かってほしいと思って」
戦後、千田さんは戦争の悲惨さを伝えようと、友人らと編集していた同人文芸誌で艦砲射撃の特集を組むなど活動。さらに、市に働きかけて艦砲射撃を伝える戦争資料館の開設に尽力した。
ところが、資料館は開館から1年も経たずに東日本大震災の波にのまれた。「これからってときに流されてしまって。本当に残念だね」
釜石は1896年(明治29年)、1933年(昭和8年)にも大津波で被災した歴史を持つ。「釜石ってとにかく安定しなかったね。なんでこんなに色々あるのかな」と千田さん。東日本大震災では親しい友人5人を亡くした。
「しかし」、と千田さん。
「戦争とこういう自然災害と、同じ犠牲でないかって言う人もいるけど、やっぱり違うんですよね。戦争は避けられるんだもん。絶対。その気になればね。自然災害に対しては知能とお金を尽くすことが出来るけど、戦争になったらもうそんなことはできないから」
取材:2016年8月、写真:山本宏樹そのほかの空襲記事
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