許されなかった避難〜青森空襲〜

空襲の被害データ

  • 空襲を受けた年月日

    1945/7/28

  • 来襲した軍用機の種類

    B-29 62機

  • 空襲で亡くなった人の数

    1,018人

  • 空襲で負傷した人の数

    300人

1945年7月28日夜、62機のB-29爆撃機が青森市を襲いわずか1時間余りの空襲で、1,000人を超す犠牲者が出ました。

前日に空襲を警告するビラが撒かれたにもかかわらず、消火の人手がなくなることを恐れた行政当局が避難を禁じたことと、投下された焼夷弾に燃え広がりやすい「黄燐」が混ぜられていたことで被害が拡大しました。

九死に一生を得た方々が、高熱の炎の中を逃げ惑った体験を語ります。

制作:Yahoo!ニュース

証言動画

この空襲を体験した方のインタビューをご覧ください。

インタビュー記事

幼子2人抱いたまま、叔母は=富岡せつさん

富岡せつさん(82)の叔母セツさんは、幼子2人を抱えたまま、青森空襲で犠牲になった。1945年7月28日夜。終戦間近のことだった。

青森空襲のとき、富岡せつさんは小学校6年生だった=2016年6月 青森空襲のとき、富岡せつさんは小学校6年生だった=2016年6月

「防空壕で子どもを抱いてどういう思いだっただろう。とにかく叔母が可哀想で」

8万発を超える爆弾が投下されたという同空襲はわずか1時間あまりの出来事だった。しかし、黄燐(おうりん)が入れられた新型の焼夷弾は瞬時に燃え広がり、街は炎に包まれた。

猛烈な熱さと、喉が焼けるような煙―。「熱すぎて、息を吸うと煙が通った所が分かるんです」

富岡さんは兄、父ととともに自宅付近の寺の敷地内にあった防空壕に逃げ込んで難を逃れたが、別の防空壕に入った叔母と2人の娘は助からなかった。

「着ているものが全部焼けてなくなっていて、男か女かも分からない状態で。(判別するのに)手間取ったそうです」

叔母親子と特定できたのは幼子のおしめ。湿っていた股の部分だけ、布の柄を識別することができたという。

富岡さんは青森空襲に関する手書き資料を携帯していた=2016年6月 富岡さんは青森空襲に関する手書き資料を携帯していた=2016年6月

戦況の悪化に伴い、小学生は同年春ごろから順次疎開を開始していた。当時富岡さんは小学校6年生。母や妹、弟らとともに親戚を頼って木造町(現・つがる市)に身を寄せていた。

しかし、7月14、15両日に青森―函館間を結んでいた青函連絡船全12隻が連合軍の攻撃で走行不能になり、乗客や乗組員ら424人が死亡。動揺した市民が市街地から避難を始めると、青森市は消火の人手が足りなくなることを恐れ、「28日までに戻らなければ配給を停止する」と発表した。

当時、食料や物資は配給制で、それなしには生活は成り立たなかった。富岡さんの叔母も、子どもたちのミルクの配給を受けるため、28日昼に富岡さんを伴い市内に戻ったばかりだった。

「あの日(市内に)来なければよかった。1日ずらせばよかったのではないかしら」

今でも思い返す。

奇しくも、前日の27日には、空襲を予告するビラが米軍機から市街地に撒かれていた。一部市民はそのことを知っていたが、ビラは憲兵や警察によって回収され、内容も口外することは許されず、多くの市民が避難することなく28日を迎えた。

空襲当時、自宅があった付近に立つ富岡せつさん=2016年6月 空襲当時、自宅があった付近に立つ富岡せつさん=2016年6月

「私、怖いです。戦争は」

富岡さんは語る。

「子どもたちは戦争ごっこしたり遊んだりしているでしょう。戦争するということは男の方が兵隊に行き、食べるものも、着るものもなくなる。みんなが死んじゃうんだよって。だからちゃんと考えて」

富岡さんは今、機会がある度に小学生らに空襲当時の体験を話している。講演時に使うのか、手提げかばんには空襲や戦争に関連する手書きの資料が。

「忘れちゃうから。勉強したのをまとめてあるのよ」。言いながら、照れくさそうに微笑んだ。

取材:2016年6月、写真:山本宏樹

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