幾度もの爆撃を生き延びて〜熊本空襲〜

空襲の被害データ

  • 空襲を受けた年月日

    1945/7/1

  • 来襲した軍用機の種類

    B-29 154機

  • 空襲で亡くなった人の数

    500人から600人

  • 空襲で負傷した人の数

    およそ1,300人

九州の拠点都市だった熊本には、陸軍第6師団が置かれ、飛行場も各地にありました。終戦間際になると米軍が占領した沖縄に向き合う前線ともなり、何度も激しい攻撃に見舞われました。

特に、1945年7月1日には熊本市街を焼き尽くす焼夷弾攻撃で500人から600人とも言われる犠牲者が出ました。

8月には沖縄からやってきた爆撃機と戦闘機の大編隊によって空爆と機銃掃射に襲われました。

当時、中学校や女学校生などで幾度ものこうした攻撃を体験した人々の証言で、熊本の空襲を見つめます。

熊本日日新聞社の協力で制作しました。

証言動画

この空襲を体験した方のインタビューをご覧ください。

インタビュー記事

東京駅が燃えている、熊本に帰れるのか=赤木満智子さん

「こんな経験をしている人は少ないでしょう。三回も。よくぞ、ここまで生きてこられたと思いますよね。」

こう話すのは、熊本市に住む92歳の赤木満智子さん、今も油絵の大作に取り組む画家である。

油絵に取り組む赤木満智子さん=2020年2月筆者撮影 油絵に取り組む赤木満智子さん=2020年2月

三回というのは、終戦の年に赤木さんがいずれも命を奪われかけた激しい空襲のこと。

熊本市は、1945年の7月と8月に激しい空襲に遭ったが、赤木さんはその両方で命からがら生き延びた。

そして、三回というのは、その前にも命の危険にあっていたのだ。しかも、それは東京での大空襲であった。

1945年5月、当時の帝国生命熊本支社で働いていた赤木さんは東京の本社へ出張することになった。

5月25日 東京山の手空襲

その仕事は、本社にある書類を地方で引き受ける、いわば疎開のための運搬であった。

初めての東京も、会社に近い日比谷公園と皇居を通りすがりに見物するだけ。ゲートルを巻いた男の人、モンペの女の人が黙々と歩いている、ビルが高くて谷底にいるように感じた。大都会の華やかさは全くなかった。

空襲の当日 二重橋前で撮影した記念写真 左下が赤木さん 空襲の当日 二重橋前で撮影した記念写真 左下が赤木さん

そして、5月25日の夜。宿泊も兼ねていた本社ビルにいるとき、爆音と同時に外が明るくなった。見ると東京中央郵便局のビルが燃えている、それで空襲だと気付いた。

「実際に爆弾が落ちているのは見ていなかったのです。ビルの窓から、たまたま郵便局が燃えているのは見ているんですよね。」

郵便局の隣の東京駅の駅舎からも炎が立ち上っていた。

「窓から炎が見えて、東京駅が燃えてる、ああ、帰りはどうなるだろうかという心配ありましたよね。」

画面右が名物のドーム型屋根が焼け落ちた東京駅の駅舎 右上が東京中央郵便局=終戦直後 画面右が名物のドーム型屋根が焼け落ちた東京駅の駅舎 右上が東京中央郵便局=終戦直後

赤木さんのいる帝国生命本社ビルにも煙が入ってきた。タオルを水に浸してそれを口に当て、ビルの屋上に向かう。

「屋上になんとかでたの。でも出てみると火の粉の海だったのよ。火の粉の散る中這っていって、水を張った貯水池があって、水のそばならってそこにいたの」。

そこでしばらく身を伏せているうちに、空襲はおさまった。帝国生命のビルは、煙が入ってきただけで燃え上がることはなかった。

のちに「山の手空襲」と名付けられたこの爆撃は、3月の東京大空襲よりも規模の大きいもので、500機ものB-29爆撃機が東京駅から皇居、丸の内、赤坂、青山、中野などの広い範囲に大量の焼夷弾を投下した。23日から連続した東京への空襲で、4000人以上が死に、84万人が焼け出された。

家族を奪った熊本大空襲

東京から帰ってひと月余りの7月1日の深夜。154機ものB-29爆撃機が熊本上空に姿を現し、大量の焼夷弾を落とし始めた。赤木さんの家は、県庁に近い熊本市の中心部で、焼夷弾が降り注いだ。

「焼夷弾のザーッという音がするんですよね、落ちてくるときは。そして、たまたま家の軒先にも落ちたんですよ。燃え出しましたもので、姉と二人でホースで水かけて、消えたんです。」

当時は、防空法という法律で市民に空襲時の消火作業が義務付けられていたからだ。

「バケツで消しよったら、もう危ない状態になったんですよね。上空、飛行機が来てね。だから、これ危ないから、もうみんな逃げようっていう。だから、家のことも何も考えていないんですよね。」

この時、体の不自由な祖父と叔父を連れて行けず、女性だけで逃げまどうしかなかった。空が白み始めてきて、家を見に行くことにした。

「我が家の近くになったら、もう何ともいえない、動物の焼けた。それはもう表現のしようがないにおいが漂っていましたよ。うちはたまたま石の門があったんです。そこを目当てに行ったら、こんもりしている所がある。そこは祖父が寝たままだったから。だから、もう祖母が狂ったように泣いて。」

病弱で一緒に逃げられなかった叔父は、防空壕で亡くなっていた。

焼け野原になった熊本市街=1945年7月(熊本日日新聞社提供) 焼け野原になった熊本市街=1945年7月(熊本日日新聞社提供)

この空襲は、9000戸以上の住宅を焼き、500人から600人もの犠牲者を出したとされる。

忘れられない機銃掃射の音

その空襲からひと月あまりたった8月10日。亡くなった祖父と叔父の戸籍を抹消するために役場に母と二人で向かう途中のことだ。米軍機が低空で襲ってきた。

「機銃掃射のビュンビュンという音は忘れられませんね。」

防空壕を探す余裕もなく、水の張った堀に飛び込み、泥の中に伏せて難を逃れた。

それでも負けるとは思わなかった

こうして三度の空襲を体験しても、赤木さんは、日本が負けるとは思いもしなかったと思っていたという。

「終戦のその日まで負けるとは思わなかった」と語る赤木満智子さん=2020年2月 「終戦のその日まで負けるとは思わなかった」と語る赤木満智子さん=2020年2月

「よっぽど、素直だったんでしょうね。情報がそんなにね。やたらにすると、警察に引っ張られるときでしたよ。一般の庶民は何も知らない人が多いと思います。やっぱり勝つって言われれば、そう信じているだけのことでしょうね。疑問はあんまり持っていない。今思うと、おかしいって思いますよ、本当に。」

赤木さんは、今も頼まれるとどこへでも出かけて行って、こうした体験を語る。平和と命のかけがえのなさを多くの人に感じとって欲しいからである。

「もう今は、本当に命のありがたさ。それは思いますね。そして、本当に平和であってほしいと願いますね。」

制作:Yahoo!ニュース
取材:2020年2月~3月

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