東京から南へ約1000~1300キロの太平洋に広がる小笠原諸島。長らく無人でしたが、1830年に計約25人の欧米人やハワイ出身者らが父島に定住し始めました。
小笠原諸島は1876年、明治政府によって領有が宣言され、この地に暮らす欧米系の人々は「帰化人」となりました。開拓や開墾が進み伊豆諸島や日本本土からの移住者も増え、太平洋戦争が始まる頃には7千人を超える島民が生活していました。
諸島で初めて広範囲に渡った空襲があったのは1944年6月15日のことです。大日本帝国が「絶対国防圏」と位置付けたマリアナ諸島では同日、米軍がサイパン島に上陸。地理的に南洋に近い小笠原の島々は、その後本土で拡大していく米軍の空襲の最初の標的になったのです。
戦況の悪化に伴い、6886人は本土に強制疎開させられました。45年2月には硫黄島で地上戦が始まり、2万人を超える日本兵や約7千人の米兵が犠牲になりました。この戦いには硫黄島民の男性103人も動員され、ほとんどが命を落としました。また、避難先で再度空襲被害に遭った住民も少なくありませんでした。
島々は戦後も数奇な運命をたどります。小笠原諸島を占領した米軍が早期に帰島を認めたのは、父島・母島に住んでいた、欧米系にルーツを持つ住民約130人だけでした。52年に日本が主権回復した後も小笠原諸島は引き続き米統治下に置かれ、父島や硫黄島には核兵器も配備されました。
小笠原諸島は68年に日本に返還され、父島や母島には元島民が帰ることができるようになりました。しかし、返還後も自衛隊基地が置かれる硫黄島には、現在まで元島民の居住が許されていません。戦後74年、返還から半世紀が過ぎても、硫黄島の住民は故郷に帰ることができていないのです。
なお、このコンテンツは「琉球新報」との共同で取材・制作しました。
証言動画
この空襲を体験した方のインタビューをご覧ください。
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帰ることのできない故郷〜硫黄島〜山下賢二さん
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“欧米系”以外は戻れなかった戦後の小笠原大平京子さん
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サトウキビと漁業で豊かだった北硫黄島山崎茂さん
インタビュー記事
帰れぬ故郷=山下賢二さん
「何でも釣れた。サワラ、カツオ、マグロ、あとは網漁でトビウオ、ムロアジ。加工して本土に出荷していた」
小笠原諸島・硫黄島。太平洋戦争末期、日米両軍による激しい地上戦が繰り広げられた「戦場」としてのイメージが根強く残る。現在も自衛隊基地がおかれ、基地関係者以外の入島は認められていない。
そんな硫黄島にも戦前には1000人余りの住民がおり、豊かな暮らしが営まれていた。冒頭の発言は、14歳まで同島に住んでいた山下賢二さん(89)=神奈川県川崎市=のもの。当時の記憶は鮮明で、「島中が助け合う生活習慣があって本当にみんなが兄弟みたいなものだった。あれは美しいよ」と振り返る。
1876年に日本の領土となった後、島には国策による入植が進められ、山下さんの祖父母も硫黄島に渡った。漁業とともに盛んだったのがコカの栽培だ。コカは日本軍が使う麻酔などの原料だった。島では葉を乾燥させて粉末にし、袋詰めにした上で本土に出荷していたという。
「袋詰めにする倉庫があるんですよね。そこに入って仕事する人はね、朝入るときは普通だけど、帰りにはふらふらしている。子どものころだったけど覚えている。だから子どもは入っちゃいけないよ、と。これは麻薬だから、と」
開戦後は硫黄島にも日本軍が送り込まれ、防衛が強化されていった。
「海軍が最初に入ってきて、それから陸軍。昭和19年に一挙に入ってきて、浜辺に行ってみると人、人、人でね。それまで島の人しか知らないからびっくりした。(自分が本土に)引き揚げるときには7千人くらい兵隊がいたようですよ」
硫黄島では生活水は雨水頼みだった。島民が暮らしていくには十分だったが、急増する日本軍にも使われるようになった。「地下タンクに鍵を掛けててもみんな(兵隊が)壊しちゃって使われた。そんなこともあった」
南洋での戦況の悪化に伴い、山下さんは子どもながらに硫黄島にも戦争が近づいているという空気を感じたという。
そして、1944年6月15日。突然、空襲警報が鳴り響いた。兵隊から「空襲なんかあるものか」と聞かされていたのに、現実は厳しかった。空襲は20~30分ほど続いたが、幸い山下さん周辺で被害はなかった。
空襲を受け、一部男性を除く島民約千人が7月に疎開。山下さん一家はつてをたどって栃木県へ避難した。翌年3月21日、硫黄島の戦いは終結し、日本軍は壊滅。ラジオを聴いていた山下さんの父親は泣き崩れたという。「若い時から苦労して開拓してきた島だからね」。山下さんも声を詰まらせた。
敗戦後、1952年には日本本土が主権を回復した一方、小笠原は沖縄などとともに分離され米統治下に置かれた。
「戦争が終わったらすぐに島に帰れるとみんな思っていた」
しかし、現在に至るまで帰島は実現されていない。元島民らは別々の疎開先へ散り散りとなり、連絡も取れなくなっていった。
1968年に小笠原諸島が返還されても、父島や母島と異なり、硫黄島での居住を国は認めていない。元島民は高齢化し、多くは故郷に帰る日を願いながら鬼籍に入った。
「『帰りたい』と『帰る』とでは違う」
山下さんは言う。今後、たとえ戻れるようになったとしても島で生活することは現実的ではなくなってきている。
「哀れなもんだったですよ、硫黄島の島民ていうのは。今でもそうだけど」
制作:琉球新報・Yahoo!ニュース取材:2019年1月
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