那覇の街を壊滅させた「10・10空襲」

空襲の被害データ

  • 空襲を受けた年月日

    1944/10/10

  • 来襲した軍用機の種類

    艦載機のべ1,400機

  • 空襲で亡くなった人の数

    225人

  • 空襲で負傷した人の数

    358人

住民を巻き込んだ地上戦で、20万人を超す死者が出た「沖縄戦」。その沖縄での戦争の始まりは、1944年10月10日の「10・10空襲」でした。

それまで平穏だった沖縄をアメリカ軍の機動部隊が襲い、のべ1,400機の艦載機が軍事施設から住宅まで無差別に爆撃と機銃掃射を加えたのです。

那覇の町の9割が焼失し、5万人が焼け出されました。その後何度も空襲が繰り返され、翌年の3月にアメリカ軍が50万人もの勢力で沖縄に侵攻してきたのです。

制作:Yahoo!ニュース

証言動画

この空襲を体験した方のインタビューをご覧ください。

インタビュー記事

市街地焼け、自宅の場所が分からない=宮平義子さん

「いま、お話ししますでしょう。私、夜眠れませんよ。色んなことが思い出されましてね」

取材の最中、宮平義子さん(87)はぽつりとつぶやいた。

那覇市の自宅で取材に応える宮平義子さん=2016年6月 那覇市の自宅で取材に応える宮平義子さん=2016年6月

1944年10月10日。米軍機の集中攻撃により那覇中心部の9割が消失し、200人以上が犠牲となった。「10・10(じゅうじゅう)空襲」とも呼ばれるこの空襲を皮切りに、沖縄は激しい地上戦をともなう沖縄戦(1945年3~6月)へと突入していく。

「朝7時くらいまで寝ていたら、『ババン、バンバンバン』と聞こえるんですね。なんだろうなって思っていると、しばらくして空襲警報が鳴った」

空襲は数時間ごとに、断続的に行われた。はじめは飛行場や高射砲陣地など軍関連施設が狙われたが、昼過ぎからは市街地を含む無差別爆撃となった。宮平さんも当時、家族とともに港に程近い那覇の中心部に住んでいた。

「救急箱と防空頭巾だけを持って。あとは何も持たない。父も母も、そのまま逃げた。着の身着のまま」

両親と3、4キロ離れた親戚宅を目指した宮平さん。「坂を上がりながら振り返ったら煙がごうごうで、目が痛いくらいだった」

米軍による空襲被害を振り返る宮平さん=2016年6月 米軍による空襲被害を振り返る宮平さん=2016年6月

約1週間後、市街地へ戻った宮平さんは焼け焦げた街を前に立ちすくんだ。「自分の家を探すんですけど、よく分からないんですよ。近所の家の蔵だけが建っていたから、あ、この辺だって」

米軍による攻撃はその後も続いた。ある日、空襲で破壊された学校の瓦礫を片付けるために歩いていると、米軍機から機銃掃射で狙われた。

「急いで近くの洞穴に駆け込んだと同時に『パパパパパパ』って。足が出ていたらやられていましたね。3機でしたか、グラマン戦闘機に急降下で追いかけられて。あのときの怖さってないです」

家を失った宮平さんと家族は、市内に仮住まいしながら、空襲が多い昼間は近くの壕に身を寄せる生活を続けていた。「100人あまりいたんじゃないかな。とにかく大きな壕でした」

10・10空襲後、宮平さんが避難していたと思われる壕=2016年6月 10・10空襲後、宮平さんが避難していたと思われる壕=2016年6月

宮平さん一家は45年1月、疎開船に乗り大分へ渡る。

「2カ月くらい経ったころか、買い物に行って帰ってきたら民家からラジオが聞こえるんですよ。(米軍が)沖縄に上陸したって」「自分だけ生き延びてね。申し訳ないことをした、と」

沖縄戦では住民の4人に1人が死亡したとされる。宮平さんの同級生にも白梅学徒隊として従軍し、命を落とした仲間もいた。

一連の戦闘などで宮平さんのおいやめいも亡くなった。「沖縄の人はどの家庭でも犠牲になった方がいらっしゃるんじゃないんでしょうか。多かれ少なかれね」

現在は那覇市の高台に息子夫婦とともに暮らす宮平さん。「子どもや孫や嫁たちに恵まれていますのでね、今は幸せです。もう戦争は嫌ですね」

取材:2016年6月、写真:山本宏樹

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