「全部私のせいだ」。ユリア・アデゥリシェンコさん(20)は、生き残った者が感じる罪悪感(サバイバーズ・ギルト)を抱いて今も生きている。ウクライナ東部ドンバス地方で育ったが、2014年に親ロシア派武装勢力とウクライナ軍の戦闘が始まり、当時11歳だった自身の目の前で両親が親ロシア派の兵士に連れ去られたのだ。2022年2月のロシアによる侵攻では、さらなる避難を余儀なくされたが、温かく包み込んでくれた里親家族とともに、前に進もうとしている。2度の戦災に翻弄されながら、そっと支え合う家族を取材した。(TBSテレビ 西村匡史)
リディア・リアシェンコさん(43)と夫のタラスさん(49)は、2014年の親ロシア派武装勢力とウクライナ軍の戦闘で両親を失った孤児が続出していることを知る。2人の間には9歳と6歳になる息子がいたが「親を失った子どもを支援したい」との思いから、支援機関を通じて紹介された長女ユリアさん(当時11)、二女ヤナさん(当時8)、三女ポリーナさん(当時4)の3姉妹と面会した。
3人は子どもだけで家に取り残されていたのを近所の人に発見された。ユリアさんは記憶を失い、うつ状態。ポリーナさんはストレスから言葉を話すことができず、喉頭がんを患っていて、引き取り手はなかなか見つからなかった。
「このまま養育者が見つからなければ、3人は別々の児童養護施設に預けられることになっていました。両親がいなくなった上、姉妹までもがバラバラになってしまうのはあまりにも忍びない。孤児院で別々に過ごすよりは、私たちと一緒の方がいいじゃない」
リアシェンコ夫妻はそう話し合い、3姉妹を引き取ることを決めた。
3姉妹がリアシェンコ夫妻の家族になってから、二女のヤナさんと三女のポリーナさんは次第に夫妻に甘えるようになり、2人の息子とも一緒に遊んで仲良くなっていった。ただ一人、長女のユリアさんだけが黙りこみ無気力状態。自分の顔を血が出るほど引っかくなどの自傷行為を繰り返していた。
実はユリアさんはショックで記憶を失う一方で、消したくても消しきれない心の傷を抱えていたのである。
2014年にドンバス地方で親ロシア派武装勢力とウクライナ軍の戦闘が行われた際、親ロシア派の兵士がユリアさんの家の呼び鈴を鳴らした。鍵を開けたのはユリアさんだった。そのとたん銃をもった兵士が家に入り込み、父親を連れ去っていく。母親は父親を追って外に出たまま戻ってこなかった。
母は臨月が近く、お腹が大きかった。ユリアさんはこの時の記憶を失っているが、二女のヤナさん(当時8)が一部始終を目撃して憶えていた。警察には「殺された可能性が高い」と告げられたという。
2015年、リアシェンコ夫妻の里子になってから半年ほどが経ったある日の出来事。ユリアさんは生まれ育ったドネツクが爆撃されたニュースを偶然見てしまう。
突然、金属製のたらいを何度も何度も素手で殴りつけ「私のせいだ。全部、私のせいだ」と泣き叫んだ。その手は赤く腫れあがり、血がにじんでいたという。ユリアさんが家族の前で感情を露わにするのは初めてだった。
慌てて追いかけた里親のリディアさんはユリアさんをぎゅっと抱きしめた。
「あなたのせいじゃない。大丈夫よ。両親は必ず戻ってくるわよ」
泣きじゃくるユリアさんに対し、言葉を続けた。「私たちがあなたを手助けして、一緒に探しましょう」。するとユリアさんが「ママ、助けてくれるの?」と言ったのだ。
リディアさんは家の裏に隠れて一人で泣いた。自身を初めて「ママ」と呼んでもらった嬉し涙だった。ため込んでいた感情を露わにすることができたこの出来事を機に、ユリアさんは大きく変わっていったという。
リディアさんはこう振り返る。「ユリアは記憶を失ったことにして、辛い出来事を無理やり心の奥底に閉じ込めようとしていたのでしょう。ニュースを目にして抑え込もうとした記憶がよみがえり、感情があふれ出てしまったのかもしれません。さらに彼女は里子になることで、元の家族を忘れなければならない、と自分をさらに追いつめていたのです。私たちが『本当の両親を忘れる必要はないのよ』と言ったことで、安心したのだと思います。これを機にユリアの人生が変わりました。まさに生き返ったようでした」
ユリアさんは周囲に少しずつ心を開くようになっていった。大学に進学後、孤児のイベントで交流を続けてきた6歳年上のウラディスラフさんと交際を始めるようになり、結婚を約束。未来への希望をつかもうとしていた。
しかし2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻し、18歳になったユリアさん一家が住むミコライウも砲撃を受けた。差し迫った状況にリディアさんは放心状態になってしまう。そんな中で家族を率先して引っ張ったのがユリアさんだった。
「お母さん、すぐに荷物をまとめて、30分以内に家を出よう」と促し、2人の妹には「この服とこの荷物をリュックに詰めなさい」と、てきぱきと指示する。リディアさんは3人の娘の成長に驚いた。
「2度にわたって避難を強いられるあの子たちを思うと不憫でなりませんでしたが、一方で私たちよりも早く準備を整えて、次の生活を見据えている姿を見ると頼もしくも思いました」
一家は4月上旬、西隣の隣国モルドバに避難することを決意。住む場所は知人が無償で貸してくれた。
2度にわたる戦災で、3姉妹はウクライナ東部のドネツクから南部ミコライウ、そしてモルドバへと再びの避難を余儀なくされた。
ユリアさんの気がかりはウクライナに残って兵士として戦っている婚約者のウラディスラフさんだ。彼を想うその目には、涙があふれていた。
「毎日、毎日、ずっと彼のことを思っていました。ちょっとでも連絡がとれないと、不安になって夜眠ることができないこともありました」
結婚するためにウクライナに一時帰国する決断をしたユリアさん。
「今、ウクライナに戻ることは危険だから、絶対に止めたほうがいい」と周囲からは猛反対された。背中を押してくれたのは里親のリアシェンコ夫妻だった。
「あなたが自分の意思で決めたことなのだから、家族で応援しましょう」
最前線にいるウラディスラフさんに2022年11月、結婚のための5日間の休暇許可が出た。ユリアさんはバスを乗り継いで国境を越え、ウクライナのミコライウに向かった。ウラディスラフさんと再会した際、一言挨拶した後、二人は抱き合ったまま何も話さなかったという。
「ロシアの侵攻で人生を変えられたと強い憤りを感じていましたが、彼と会った瞬間、全てが吹き飛びました。彼を抱きしめていれば、言葉はいりませんでした」
純白のウェディングドレスに身を包んだユリアさんと迷彩服姿のウラディスラフさん。ドレスの代金は、苦しい生活をしているリアシェンコ夫妻がせめて娘の晴れ舞台だけはとの思いでコツコツ貯めたものだった。新郎新婦はミコライウの役所に婚姻届を提出した。
モルドバに戻ったユリアさんのお腹には新たな命が宿っていた。
2023年1月、戦闘が激しいドネツク州の最前線にいるウラディスラフさんからユリアさんのもとにオンライン電話があった。「これ、僕の朝食だよ」とタバコを吸い続ける夫に「あなた、ちょっと吸いすぎよ」とたしなめる新妻の顔も覗かせた。
新婚の二人にとって貴重な時間だが、私は少しだけお邪魔させてもらい、ウラディスラフさんに結婚した感想を聞いた。
「もちろん嬉しかったです。1日も早く戦争を終わらせて、ユリアをウクライナに連れて帰りたいです」
その時、電話の向こう側で「バーン」という大きな着弾音がした。仲間の兵士のざわめきとともに、慌ただしく移動する足音が聞こえた。
夫のウラディスラフさん:「すぐ近くだ」
ユリアさん:「そうね」
ウラディスラフさん:「じゃあ、またあとでね。愛しているよ」
ユリアさん:「私も愛しているわ。気をつけて」
そして、電話が切れた。ユリアさんは沈んだ顔つきになっていく。深いため息をつき、しばらく沈黙した後、こう言った。
「もし1日でも『大丈夫だよ』という連絡がないと、私は心配してしまいます。一番大切なのは彼が生きて帰ってくること。一刻も早く戦争が終わってほしいです」
2024年1月、日本にいる私は、1年ぶりにモルドバのユリアさん一家とオンラインで連絡をとった。
ユリアさんが笑みを浮かべ、元気そうな姿を見せてくれたことに、少し胸をなでおろした。実はユリアさんが子どもを流産したことを、母親のリディアさんから事前に聞いていたからである。
ユリアさんは2023年春、首都キシナウの病院で検診を受けるためバスで移動した。長時間、満員の車内で立って移動したため、目的地に到着した頃には気を失ってしまう。救急車で搬送されたが、流産してしまった。
戦地で出産を楽しみにしているウラディスラフさんとの子を亡くしてしまったことに激しいショックを受けた。自室にこもったまま誰とも話をせず、勉強することもできなかったという。
しかし6月、ウラディスラフさんが爆撃を受けて足に傷を負い、出血多量で危険な状態にあるという報が入った。深夜にそれを聞いたユリアさんは翌朝5時に家を出発し、その日のうちに夫の入院先のウクライナのオデッサの病院に駆け付けた。
ウラディスラフさんは2週間入院した後、幸い命を取り留めた。だが、十分なけがの回復を待たずに、退院から1週間後に再び前線に派遣される。
ユリアさんは戦地に向かう夫を見送った後、再び前を向こうと決めた。避難生活が長期化し、将来の希望が描けないという2人の妹には「どんなに傷ついたとしても、立ち上がって進む道しかない」と励ました。同じように夫が戦地で戦っている女性や、故郷に帰れず悩む人たちの話を聞き、精神的なサポート役にも回っている。現在もウクライナの大学でのオンライン授業を受講し、今年卒業の予定だ。
11歳の時に「両親を連れ去られたのは自分のせいだ」と責め続け、自傷行為を繰り返していたユリアさん。10年前、家族として迎え入れてくれたリアシェンコ夫妻への感謝の思いが尽きることはない。
「里子になるまでは私たち3姉妹は別々の施設に預けられていました。あの時、バラバラになっていたら、私は今でも妹たちを必死に探し続けていたでしょう。両親と2人の弟が私たちを家族として温かく迎えてくれました。この家族がなければ違う人生だったと思います。こんな幸せな生活は送れていませんでした。今は早く戦争が終わってほしい。そして、夫の子を産み、今の家族のような大家族を作ることが私の夢なんです」
TBSテレビ 西村匡史
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