ウクライナから避難し来日した23歳の女性が、支援してくれた人々に感謝を伝えたいと、日本語のメッセージを手書きでしたためた。日本のビジュアル系バンドのファンになって日本語を学んだ縁もあり、避難先を日本にした。過酷な旅路の末にたどり着いたこの国で、ふるさとに残る家族や同僚たちの無事を祈る日々。いまの自分にもできることを。そんな思いから、子どもたちに英語を教えるボランティアを始めた。【浜田和子】
「たくさんのえんじょをしてくださったみなさまへ。おかげさまであんしんしてせいかつできるようになりました。ありがとうございました。にほんのせいかつになれるようにがんばっています」。ウクライナ東部から戦禍を逃れ避難してきたアニャ・ペレクレストさん(23)が、平仮名一文字一文字を確かめながら書いた感謝のメッセージだ。
アニャさんは4月1日、日本にたどり着いた。航空券の手配から衣食住のすべてまで、10年来の知人である金子輝大さん(38)=埼玉県上尾市=やその家族、地域の人々らが整えてくれた。思いを込めて書いたメッセージは金子さんが写真に撮って、応援してくれている人たちに送っている。
涙が止まらない夜もある。同僚や上司、知人が亡くなったという知らせが毎日のように入る。ヘリコプターや航空機の音には今もビクッとする。蒸し暑い日本の気候に体が慣れず、激しい頭痛にも襲われる。苦しくて悲しくて眠れない。
それでも、自分も何か役に立ちたい、日本の人々に恩返しがしたいと、金子さんの知人から勧められた子ども英語教室の講師補助としてボランティアを始めることにした。
さいたま市の公民館で毎週開かれている子ども英語教室は、カナダ人男性が先生となり、何人かの外国人がボランティアでサポートをする。
アニャさんはウクライナ語のほか、日本語、英語、フランス語など数カ国語を、程度の差はあるが話せる。「外に出たら少しは気が紛れるのでは」と、金子さんの知人で教室を主宰する女性がボランティアに加わることを勧めてくれた。
初めて参加したのは4月19日。10人ほどの小学生に対し、アニャさんは発音を確認したり、間違いを直してあげたりした。アニャさんがウクライナで子どもの頃に通った座学ばかりの英語教室のようではなく、体を使うなどして楽しみながら学べる方式だったことに新鮮な驚きをもった。「私も楽しかったです。小さい子の集中を切らさないようにするのは難しいのに、勉強になりました」。
日本滞在の手続きで時間が取れなかったり、体調が優れなかったりしてなかなか参加できずにいるが、日本での就職先が決まるまではボランティアを続けたいとアニャさんは話す。
アニャさんのふるさとはウクライナ東部の工業都市、ドニプロだ。ドニエプル川の両岸に発展した緑豊かで歴史のある美しい街だった。それが、ロシアの侵攻により、着弾音で目覚める日々。軍用機が上空を飛ぶ音、砲撃音、地響き、鳴り響く空襲警報......。10階建てコンクリート造りの自宅アパートで恐怖にわなないた。
侵攻の始まった2月24日、ウクライナでは国民総動員令が発令され、18~60歳の男性は出国が禁止された。鉄道建設の仕事でポーランドに出稼ぎに行っていた父ユーリさん(51)は、帰郷すると徴兵された。兄アレクセイさん(30)は内臓に障がいがあるため軍隊に入らずに済んだが国外には出られない。
市内の空港や軍事施設が破壊されていくことに慄然(りつぜん)としながらも、コンピュータープログラマーの仕事をもっていたアニャさんは、一人郊外の村に疎開した。その一方、病院で兵士のために衣類を集めるボランティア活動も続けていた。資材は日に日に集まりにくくなっていた。
3月初め、母ナターリアさん(52)から「アニャ、一緒に逃げましょう」と呼びかけられた。だが、疎開先の村から鉄道の便はなく車もなかったため、母の指定した時間にたどり着けなかった。母は兄嫁、1歳の孫とともにポーランドへ脱出した。
3月10日深夜、父が切迫した声で電話をかけてきた。「アニャ、まだウクライナにいるのか。ポーランド行きの臨時列車があす走ることがわかった。朝8時にドニプロの駅から乗りなさい」。国内にいる父や兄を置き去りにするような気がして叫びたいほど悲しかったが、ウクライナに残るリスクと避難する際のリスクとを比べ、父の言葉を胸に出国することを選んだ。
11日。リュックサック一つにジーンズ、ジャケット、スエット2着、大学の卒業証書、パソコン、スマートフォン、2リットル入りのペットボトルの水を詰め込み、部屋を後にした。
父の知らせてくれた列車は鉄道関係者の家族向けに用意された避難列車だった。臨時運行に気付いた街の人々が着の身着のまま後から後から乗り込み、すし詰めになった。切符は不要で無料。一人でも多くの人を助けようと一丸となっていた。大きな犬も乗ってきた。隣の州では襲撃され多くの人が亡くなった駅があったものの、アニャさんの列車は無事出発した。
座席を確保できていたアニャさんだったが、高齢の男性に席を譲りリュックを抱えて立ち続けた。「この座席で少し眠りなさい」と男性が時々立ち上がり代わってくれた。年長の子が幼い子をあやしたり、食料を多めに持つ人が車内の子どもたちに分けたりして、支え合いの空気が広がっていた。
一方、隣の車両からは始終子どもたちの泣き声が聞こえた。「おなかすいたー」「こわいよー」「ママ、おしっこー」と口々に声を上げ、「静かにしなさい!」「もうちょっと我慢しなさい!」と疲れた声で叱りつける母親の声も聞こえた。「空爆などに遭わずポーランドにたどり着けるかどうかだれもが不安だったから、子どもたちにも不安が伝わったのかもしれません」とアニャさんは振り返る。
困ったのはトイレだった。まずはトイレットペーパーを持っている人を探して少しもらう。その後トイレまで人を押し分けて行かねばならなかった。トイレは水洗式ではなく、昔の日本がそうだったように、線路上への垂れ流し式だった。汚物が駅に堆積(たいせき)しないよう、駅に停車中はトイレの使用は禁止されていた。
沿線で空襲警報のサイレンが鳴ると列車はどこを走っていても停車した。車内の明かりは消え、窓は閉められ、位置情報を消すため携帯電話の電源を切るようにと乗務員から指示があった。そして息を殺し、じっと身を縮める。上空や近郊で何が起きているのか、ひりつくような恐怖の時間がただ過ぎるのを待つ。昼となく夜となくサイレンは鳴り、列車は止まった。
ドニプロからポーランドまでは、東京から福岡ほどの距離だが、2日かかってもたどり着かない。持って出たサンドイッチは既になく、水をちびりちびり飲んでは空腹をこらえたが、3日目に入り、その水もついに飲み干してしまった。
午後7時ごろ。列車はウクライナ西部、国境近くの村リュボームリに着いた。国境での検問に時間がかかるため、しばし停車するということだった。列車から降りると、夕まぐれの穏やかな空が広がり、オレンジ色の残光が車体を染めていた。電池切れを心配して電源を切っていたスマートフォンを立ち上げ、写真を撮った。
村人たちは列車の避難者たちに温かいスープをふるまってくれた。空腹と緊張が解けていった。列車はウクライナを後にし、ポーランドの国境近くの町ヘウムに着いた。
ヨーロッパの多くの国ではウクライナからの避難者への支援に乗り出している。ウクライナのパスポートかIDカードのみで各国の鉄道は無料乗車を認めている。
アニャさんはバルト海にほど近いポーランド北部の町ルミアに向かい、母親たち3人を受け入れてくれた家を訪ねた。母は「どうか娘も一緒に」と頼んでくれたが、これ以上人が増えるのは厳しいということだった。学生時代の友人のいるスロバキアを訪ねるなどしたが、腰を落ち着けられる場所が見つからない。
小学生の頃、日本のビジュアル系バンド「ガゼット」のファンだったアニャさんは、メンバーが「何を話し、どんな内容の歌を歌っているのかをただ知りたくて」日本語の勉強を始めていた。日本語を学ぶ外国人のためのグループチャットの中で、語学サポートをしていた金子さんと知り合った。「まだ小さいのに誰よりも一生懸命勉強する子」という印象を持ったと金子さんは話す。
戦況の悪化の中で避難先の定まらないアニャさんを心配していた金子さんは、来日を提案した。3月も半ばを過ぎ、アニャさんは決心した。PCR検査料や航空券の手配など、金子さんが尽力してくれた。仕事は辞めざるを得なかった。
3月31日、ワルシャワの空港をたち、韓国と大阪を経由して4月1日、羽田空港に着いた。初めて対面した金子さんが空港まで迎えに来てくれた。東京の街はうそのように穏やかだった。
アニャさんはいま、金子さんの家族が用意した上尾市内のアパートに一人で暮らす。上尾市は4月中旬、初のウクライナ避難民受け入れのため、関係各課を横断した会議を立ち上げた。
(1)一時支援金として、避難民を受け入れた世帯に16万円を支給
(2)翻訳機の貸し出し
(3)医療、保険、就労、子育て、就学、福祉に関することなどの相談窓口の設置
(4)庁内に検討会議を設置
といった支援策を発表している。メンタルケアについても支援できるよう取り組んでいる。
アニャさんは5月6日、就労のできる「特定活動(1年)」の在留資格を得た。航空券代約13万円のほか、日常生活の世話を一手に引き受けてきた金子さんにも支援金が給付された。
日本に来たことを実感したのはアニャさんが23歳を迎えた誕生日だった。金子さんと父の隆之さん(70)とともに金子さん宅でホールのケーキを切り分けて食べ、さいたま市のレストランで食事をした。その足で生まれて初めて「神社」を観光した。
「ショッピングモールやカフェはヨーロッパにもあったけれど、神社は特別。鳥居という赤い門も、個性的な形の建物も、教会と異なり敷地内に誰でも受け入れているところも、とっても魅力的でした」
プログラマーだったアニャさんは、日本でもプログラミングやシステム開発の仕事を見つけたい。何十通も履歴書を送り、何度か面接にたどり着いたが、まだ採用されるまでに至っていない。日本で外国人が正社員として採用されることの難しさを突きつけられている。
ロシアには友達も親類もいる。母方の祖母の妹はロシアの国籍を取得し、ロシア国内に住んでいる。ウクライナを応援し、デモにも参加していたが、ロシア政府からこれ以上運動すると逮捕すると宣告されたため活動できなくなったと聞いた。
湧き上がる「なぜ」という思い。ロシアについて語るのは「なかなか難しいです......」。口を引き締め、目を伏せる。
ウクライナに戻りたいですか? そう尋ねると、「家族がいるし戻りたいけれど、戻れないのが現実です」と言う。「......起こることは仕方がありません。どんな状況下でも笑顔を崩さないようにしています」とアニャさんは付け加えた。
侵攻が始まって半年、事態は終結の兆しすら見えない。ウクライナに残るアニャさんの家族は、父だけでなく兄も徴兵された。糖尿病だった父を心配していたが、脚をけがして前線から離れたと連絡があった。一方、兄は前線に配属されその後連絡はない。「前線に薬はないと思います。障がいのある兄はどうしているのでしょう」。ポーランドにいる母や兄嫁も情報を必死で集めている。
元の会社の同僚や知人の戦死の報が今でもしばしば入る。ウクライナに残らなかった自分はよかったのか。穏やかな空を見るだけで心が重く、夜も眠れず、気持ちの安定しない状態が続く。
「日本の新聞もテレビも、最近はウクライナの情報が少なくなってきたのが残念です」と金子さん。各種団体の支援情報も得にくくなっているという。9月末、アニャさんは埼玉県営住宅に無償で入居できることになった。とはいえ、生活の基盤はまだ作れていない。 そして今も、ウクライナの空には砲弾が飛び交っている。
制作:毎日新聞
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