太平洋戦争末期、特攻の拠点があった宮崎県は、繰り返し激しい空襲を受けました。「父がやられて、のけぞったのを覚えている。父は脇腹に、いとこは頭に銃弾を受けた」。当時12歳だった男性は、米軍の銃撃で家族を目の前で亡くしました。
当時4歳だった男性は空襲で自宅が倒壊し、隣人を亡くしました。これまで戦争体験を語ってきませんでしたが、ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、記憶の継承と避難民の支援を始めています。「兵士の戦いだけが戦争ではない」。反戦の思いを聞きました。(テレビ宮崎)
太平洋戦争中、宮崎県では宮崎市や都城市、日向市の飛行場から特攻機が飛び立ちました。県内の軍事施設を狙ったアメリカ軍による空襲が相次ぎ、多くの命が犠牲になりました。
終戦直前の7月31日、当時12歳だった平山直雄さん(90)=宮崎県日向市=は両親と弟の4人で富島町(当時)の自宅で昼ごはんを食べていました。
「良い天気で日本晴れ、青空が見えていた。警戒警報は出ていたが突然、北の方から黒い影がごうとやって来て、出てみたらグラマンの戦闘機でした。トウモロコシの葉がなびくぐらいですから、超低空でパイロットがはっきり見えた」
父・正雄さんが外で遊んでいた当時8歳の直雄さんのいとこの手を取り、防空壕(ごう)へ避難しようと走り出した瞬間、機銃掃射を受けました。
「私は幸いにも足に銃弾がかすっていって、どうにか命は取り留めたのですが、小屋の瓦が飛び散って、その時に父親がやられた。のけぞったのは覚えている、瞬間ですよね」
直雄さんの父は脇腹に、いとこは頭に銃弾を受け命を落としました。父に続いて外に逃げ出した直雄さんは、無我夢中で自宅に引き返し、床下に潜り込みました。アメリカ軍機が立ち去ったあと、気付くと両足から出血していました。寺に運び込まれて麻酔なしで3針を縫った右足には、今も傷痕が残ります。
「大腿部の肉をだいぶ持っていかれたでしょうね。(軍医が)アルコールを流して人差し指を傷口に突っ込んで洗ってくれた。そして縫合した。痛かったのを覚えています。傷口が化膿(のう)せずに治った。良かったです」
傷が治るまで3カ月ほどかかりました。
「帰って母親にお父さんはどういう状態だったと聞いたら、いろいろ話してくれて。その時は2人で一緒に泣いたです。これから先どうなるんだろうと話しながら。(父は)優しかったですね、可愛がってもらったことは覚えています。
あの当時、戦災を受けて2週間で終戦になった。父の死は何だったのかと思います。51歳ですから、残念に思います。納得いきません。戦争は2度と起きてほしくない。ウクライナを見るとあの当時をまざまざと思い出す。私の戦争は終わらない。両足の傷痕を見るたびに思います」
同じ日向市財光寺の協和病院には、当時の海軍富高飛行場の滑走路跡が残っています。ここから沖縄に向けて数多くの特攻機が飛び立ちました。同病院の堀俊一郎事務長はこう説明します。
「風化してでこぼこしていますが、滑走路を造られた方、パイロットの方も来られて、触れられて涙する方もいました」
病院の一角にある特攻隊の慰霊碑そばには、250キロ爆弾の爆撃跡。直径約12メートル、深さは約3メートルと爆撃の激しさを物語っています。
「初代の理事長が学生時代にこの滑走路の建築に携わった事もありまして、戦跡をいかに残そうかと考えた。太平洋戦争の悲惨さを伝える戦跡として『残す』という事が一番大切だと思います」
宮崎県新富町にある航空自衛隊新田原基地は戦前、陸軍の飛行場でした。隣の佐土原町に住む山路凱民さん(82)は当時4歳、上空を飛ぶ練習機を眺めるのが朝の日課でした。
「3月の18日でしたが、練習機が全く飛ばない。どうしてだろうと思って上空を見たら、高い所にキラキラキラキラと輝く、今まで見た事のないような飛行機が飛んでいた。しばらくすると下からドンドン大砲を撃つ音だけ聞こえましたが、すーっと飛行機が帰っていきました。それから2時間くらいたったでしょうか、ものすごい数の飛行機が飛んできて、めちゃくちゃ爆撃して帰っていった。それが一番の印象です。怖かった。陣地は壊滅したんだと思います」
飛行場などが標的となり、その後も空襲は続きました。山路さんは空襲警報のたびに自宅の防空壕に逃げ込みました。
「(防空壕の深さは)大人が立っても上に付かないくらいだったので相当です。2メートルくらい掘った。長さも3メートルくらいあったんじゃないでしょうか。木を渡して、その上に藁(わら)を敷いて、土をかぶせる」
そして4月26日、自宅が空襲の被害に遭った時のことを、今も鮮明に記憶しています。
「空襲警報が鳴って、すぐ防空壕に入りました。しばらくして、うちに直撃弾が落ちて、どーんと下から突き上げるというか、私は飛び上がりました。上からかぶせてあった砂が落ちてきて、半分埋まったような、本当に怖かった。(今でも)それを思い出す」
家族7人は防空壕に逃げ込み無事でしたが、自宅は倒壊。隣の家では2人が亡くなりました。
「(自宅の)馬小屋に爆撃を受けた。馬と牛とヤギ、鶏も死にましたね。たまたまお隣が馬小屋で作業をしていて、お二人亡くなりました。息子さんは39歳だったそうですが、それこそ即死。おじいちゃんは雨どいに乗せて村の青年たちが運んでいる途中に亡くなりました。出血多量で。ほんとに気の毒な事したね」
山路さんが住む地区が空襲にあったのはこの日だけ。70発以上の爆弾で4人が犠牲になったと記録が残され、慰霊塔が建てられています。
「当時はレーダーで爆撃する場所を探すんじゃなくて、目測ですから。その日は曇っていた。距離を誤ったんでしょうね。私たちが見た爆弾の跡も真っすぐ一ツ瀬大橋まで向かっていた」
山路さんの家族は全員無事でしたが、自宅が倒壊した事で苦しい生活が続きました。
「まず家ですけど、それこそ掘っ立て小屋。柱を建て、壁を巡らせて、仮住まいも仮住まい。地面にゴザを敷いて、むしろを敷いて寝るような生活から始まった。両親が大変苦労しているのは分かっていましたから、小学校の5年位から田畑に行って、土日はいつも農作業です」
今でも隣の家族とは一度も戦争の話をしたことがありません。
「それはもうね、言葉に表せないような気持ちでした。お母さんと4人の子供だけ残って牛、馬を使った経験がないので。今と違って機械による耕作ではありませんから、ときどきうちの親が手伝いをしていた。大変苦労をしていた」
山路さんは去年、自宅に落とされた爆弾の破片を偶然見つけました。重さ200グラム、約20センチで全体がさびていますが、戦後80年が迫る今でも先端は鋭利なままです。
「畑の手入れをしていたらカチンとくわに当たって、これが出てきてびっくりした。重いし、今でも手が切れそうですから。もう生きた心地はしないですよ。こんなものが飛び散るわけですから。落ちた後30分くらいして爆発する時限爆弾もある。それがまた怖かった。空襲に来た後、30分、あるいは1時間は防空壕から出るなと言われていました」
現在、山路さんはロシア軍によるウクライナ侵攻の避難者に対し支援活動を続けています。
「直接、私どもが現地に行って手伝う事は出来ないけど、避難してきた方には精一杯の事をさせていただくという事です。住宅の提供、進学の時の学校のお世話、通訳、役所につれて行くこともある。肌にしみて怖さが分かっているので、逃げてこられる方の大変さも、ある程度はわかると思う。当時は落として爆発するだけの事ですけど、今はそうじゃない。クラスター爆弾を使ってもいいとか言っているが、とんでもない事だと思う」
戦争体験を今まで家族にも語ってこなかった山路さん。しかし、ウクライナの現状を目の当たりにし、若い世代に伝えていこうと考えるようになりました。
「これほど悲惨というか、理屈に合わないというか、なんの落ち度もない所にも無差別に攻撃が来る。それが戦争です。絶対に戦争はしてはいけない。弾が飛び交う最前線、兵士の戦いだけが戦争ではなくて、見えないところ、誰も気づかないところで、とんでもないことが起きていると伝えないといけない。今もし日本が戦争に巻き込まれたら、当時と比較にならないほどの影響があると思う。絶対、どんなことがあっても戦争を避ける努力をしないといけない」
制作:テレビ宮崎
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