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「お父さん、もう逃げて」死を覚悟した16歳 体中にガラス片、両手足をやけど 何度も泣きながら娘に語った恐怖 #戦争の記憶

宮崎隆史
宮崎隆史 TSSテレビ新広島 報道制作局報道部 記者

悲惨な原爆の過去を乗り越えたのは親子の強い絆でした

全国の被爆者数は、今年3月末時点で10万6825人。この15年で約13万人の被爆者がこの世を去った。被爆者の高齢化や減少に伴い、広島市は、その体験や思いを語り継ぐ伝承者の養成を12年前から始め、現在264人の伝承者が活動している。ただし、伝承者になるためには、被爆体験や思いを受け継ぐ被爆者の「存命」が条件。「いつか被爆者は死ぬ」。限られた時間の中で、母は何度も涙しながら娘に被爆体験を語り継いだ。そして、被爆者の父を失った息子が決意した平和への誓いとは。2人の語り部から、伝承の意味を問う。

「いつか2人で講話を」叶わなかった父との夢

去年11月、平和を訴え続けてきた1人の被爆者がこの世を去った。細川浩史さん、広島市が委嘱し被爆体験の語り部活動を行う「証言者」としては、最高齢の95歳だった。告別式には家族や浩史さんを慕う人など、多くの人が参列した。「父ちゃんよう頑張ったね ありがとうね」

長男の洋さんは、棺桶で目を瞑る父の頭を撫でながら、笑顔で最後の別れを告げた。

洋さんは、父・浩史さんが伝えてきた被爆体験と思いを語り継ぐ伝承者としての活動をはじめた。原爆資料館で講話を行う、その傍らには遺影が置かれている。「父が元気になったら、いつか父と2人で講話をしたかった。」その夢が叶うことはなかった。

浩史さんは17歳のとき、爆心地から約1.3kmの勤務先の建物で被爆。爆風で飛び散ったガラス片が体中に刺さって大けがをしたが、一命をとりとめた。自分のことよりも気がかりだったのは、4歳下の最愛の妹・瑤子さんのこと。当時13歳だった瑤子さんは、爆心地から約700mの建物疎開の作業中に被爆。瑤子さんは、帰らぬ人となった。「僕の生涯の一番 最大の悲劇」

瑤子さんが女学校に入学してから亡くなる前日の8月5日まで書き残した日記帳を前に、生前、浩史さんは悔しさをにじませていた。浩史さんは、瑤子さんが生きた証を後世に残すため、瑤子さんが被爆した時に着ていた服などの遺品を原爆資料館に寄贈したが、この日記帳だけは、手放すことができなかった。「僕の一つの支えだったのかも。いずれ僕の終末が来たら出そうと思うが、僕がいる限りは大切にしてあげたい」。あれから5年、浩史さんは、妹のもとへと旅立った。


「人類共有の財産」父の思いに背いた覚悟

浩史さんの死後、洋さんは、追体験をするため、父が被爆した場所を再び巡り、父の思いに寄り添おうとするも、思わず本音がこぼれた。「聞いておけばよかった。一緒に歩いておけばよかった。そんなことだらけ。想像することしかできない」。後悔の言葉の数々。被爆体験や思いを受け継いだつもりだったが、父亡きいま、それを知ることはできない。それでも、父を知る人を頼って当時の話を聞いたり、父の遺品を整理したりするなどして、生きた証に触れながら、少しずつ前に進む努力を怠らない。

浩史さんが大事にしていたあの日記は、洋さんの手元に残されていた。「棺桶に入れて一緒に焼いてほしい」。浩史さんからはそう頼まれたというが、洋さんはそうしなかった。「被爆死した少女が残した人類共有の財産。瑤子さんから父へ、父から私へ託されたバトンのようなもの」。洋さんは、この日記をいつか原爆資料館に寄贈して、世界中の人々に見てほしいと願う。

「微力だが無力ではない。世界平和を訴え続けてきた父なので、父からバトンを受け取った伝承者として残る人生をかけて伝え続ける」


「爆風で家の下敷きに」泣き叫び死を覚悟

生前の浩史さんのように、広島市から委嘱された「証言者」として、語り部活動を行う被爆者は現在32人。一方、差別の目が怖い、つらい体験を思い出したくない等、様々な理由でこれまで自らの体験を語ることができなかった被爆者も多い。

「あまり話しとうもないし、思い出すもの辛い...でもわかってもらわんとね」

今年95歳となった福田喜代子さんは、封印していた79年前の記憶を娘に語り継ぎ始めた。1945年8月6日、16歳だった喜代子さんは学徒動員を休んで自宅にいた。心臓病の父・登平さんの看病をしていたところ、原爆の衝撃に襲われた。

「意識がなくなり、気づいた時には家の下敷きだった」。爆心地から1.5km離れた自宅は、爆風で倒壊。大きな屋根の柱に左脚を挟まれ、身動きが取れなくなった。

「喜代子、喜代子!」

父の声が聞こえたが、喜代子さんは泣きながら叫んだ。「お父さん、もう逃げて」。死をも覚悟したというが、父は何度も叫び続けた。「お前を置いてよう逃げん」「足がもげても(取れても)、切れてもいいから抜いてみてくれ」。力を振り絞り、ようやく抜けた脚の左ひざからは、血がタラタラと流れていたが痛みは感じなかった。

周囲の家はすべて焼け落ち、病気の父を背負いながら裸足で助けを求めて逃げ回った。人や牛、馬がそこら中に倒れていて、目の前には悲惨な光景が広がっていた。途中、水を飲ませてほしいと頼む父に、ボウフラが浮く防火用水を、ボウフラが入らないように水をすくって、父に飲ませた。その時は、放射線を浴びた水だということはわかっていなかった。

何時間も逃げ回り、どうにか軍隊のトラックに乗せてもらい、救護所となっていた学校で命を救われた。体中にガラス片が刺さり、両手両足にやけどを負った喜代子さんは、助かった安心感からか、その後の記憶はあまりないというが、父・登平さんが必死に看病をしてくれたという。その父は、翌年12月に息を引き取った。

「蘇る原爆の恐怖」思い出すたびに涙

喜代子さんは、戦後まもなく岡山県の親戚のもとへ疎開したという。広島の新型爆弾の被害に遭った人がいると、物珍しそうに見に来る人はいたものの、差別を受けるようなことはなく、原爆のことはそっと心にしまった。当時の恐怖が蘇るのと同時に、もっと悲惨な体験をした人がいる中で、今も傷跡が残るものの、両手両足のやけどですんだ自分が、原爆を語ることは申し訳ないとこぼす。

そんな喜代子さんを突き動かしたのは、娘・慶子さんの一言だった。「伝承者になるため勉強してみたい」。心のどこかでは自分の家族だけでもわかってほしいと気持ちがあったという。

それでも、拭えない過去が立ちはだかった。「(体に刺さったガラス片は)ピンセットで取ったの?血は流れたの?」。慶子さんが母・喜代子さんに問いかける。「だんだん忘れてしまって...思い出したら涙が」。記憶を呼び起こすたびに、言葉に詰まり何度も涙を拭う。辛い過去を幾度となく確認し、慶子さんが講話をすることになったのは、約2年後のことだった。

「娘が語る母の被爆体験 溢れ出す思いに涙」

慶子さんが原爆資料館で一般の人を前に初めて母の被爆体験を伝える日。話を聞く人の中には、母・喜代子さんの姿もあった。娘が語る自分の体験に何度も頷き、当時の光景を思い出すかのように、涙を拭う母の姿。講話を聞きに来ていた人の目からも涙がこぼれた。

「私のような体験を誰にもしてほしくない。核兵器は嫌だ。戦争は絶対に嫌だ」「皆さんの未来が平和で明るく楽しいことを願っています」

初めての講話が終わると、慶子さんは胸を撫でおろした。「母に聞いてもらうことが目標だった。目標を達成できてよかった」。母・喜代子さんもまた、安堵感を見せる。「この子に通じているかわからなかったけど、(思いが)通じていた。これで私も安心して死ねる」。被爆者の母の記憶が、娘へと託され、次の世代へと繋がった瞬間だった。

「あの日」から79年を迎えた。被爆者は、思い出したくない過去と、伝えていかないといけない現実の狭間で揺れている。今年3月時点で、被爆者の平均年齢は85.58歳まで上がった。限られた命の中で、被爆の実相を語り継ぐため残された時間は決して長くはない。


編集後記

宮崎隆史

宮崎隆史

TSSテレビ新広島 報道制作局報道部 記者

取材を始めたきっかけは、細川浩史さんの葬儀でした。棺で眠る浩史さんと、それを見守る息子の洋さんをカメラで撮影しながら、被爆者の死を目の当たりにすると同時に、被爆者の声を繋いでいかなければと強く感じました。被爆者の声に耳を傾けることは大切なことです。一方、その声を絶やさないように伝えようと歩みだそうとしている、洋さんや慶子さんのような伝承者たちがいます。次の世代を担う人たちにも目を向けてみませんか。

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