95歳の今も、集会などで戦争体験を語り続けておられます。
成田空港から飛行機に乗り、およそ3時間半で着くサイパン島。沖縄県の宮古島より少し小さな島です。第1次世界大戦後、日本はサイパン島などを占領し「南洋群島」と呼びました。不足する資源を確保しようと「南進政策」を進める拠点として多くの日本人を渡航・定住させ、植民地さながらに支配しました。貧困と人口過剰にあえいでいた沖縄からも大勢が移民。1万2千人以上の沖縄県人が犠牲になりました。16歳の時にサイパンの地上戦を体験した95歳の女性は「砲弾を受けた兄は、私の身代わりになった」と自らを責め続けています。二度と惨禍を繰り返さないために戦争をどう継承していくか。80年前の記憶が刻まれた場所を体験者と若者がたどり、平和を考えます。
沖縄県那覇市の霊園「識名霊園」。お墓が立ち並ぶ一角に、クワディーサー(モモタマナ)やバナナの木に囲まれた慰霊碑がある。太平洋戦争時、日本の委任統治領だったサイパンやテニアン、パラオ群島など 「南洋群島」で犠牲になった沖縄県人を悼むために、1963年に建てられた。
「ここに来ると、兄や父が待ってくれていると思って、涙が先に出るんですよ」。16歳でサイパンの戦争に巻き込まれ、10歳上の兄や父を失った横田チヨ子さん(95)=宜野湾市=は碑の前にたたずみ、何度も目頭を押さえた。月2回、バスを乗り継いで足を運び、家族の御霊(みたま)に語りかけている。
2024年2月、横田さんの傍らにいたのは国際旅行社(那覇市)の我如古(がねこ)涼太さん(31)。沖縄から南洋群島を訪問する慰霊の旅に昨年、添乗員として同行した。横田さんは我如古さんに、今も鮮明に残る戦争の記憶を語った。
横田さんは1928年、具志川村(現沖縄県うるま市)で生まれ、3歳の頃、サイパンに渡った。第1次世界大戦後の不況で、食べ物に困るほどの経済的困窮にあえいだ沖縄。
父は大工として働きながら、牛など家畜を飼って生活していた。横田さんは海にサザエを採りに行ったり、山にバナナやパパイヤを採りに行ったり。自然豊かで、食べ物には困らない生活だった。
だが、徐々に戦時色が強くなっていく。「ぜいたくは敵だ」「ほしがりません勝つまでは」と思っていた。「日本は神の国、絶対に戦争には負けない」。日本本土と同じように南洋の学校でも皇民化教育が徹底され、軍国少女になっていった。
1944年3月、国民学校高等科を卒業し、島の中心地・ガラパンの歯科医院で働いていた横田さん。卒業からわずか3カ月後、生活の場は戦場になった。6月13日、米軍が海から激しい砲弾を撃ち込む艦砲射撃が始まった。「サイパンに戦争が来たんだ」と衝撃を受けた。ガラパンの大きな防空壕にしばらく身を潜め、夕方、急いで実家へ向かった。「シューッ」と弾が通り過ぎる音を聞きながら、大勢の避難民の中でもみくちゃになりながら進んだ。被弾し、首から上が吹っ飛ばされた人が倒れているのも目にした。当時16歳の少女にとって「怖いというより早く逃げないと、という気持ちの方が強かった」。
両親や弟と合流し、島中央にそびえるタッポーチョ山に向かう途中で兄家族と合流。15日に米軍が上陸し、追い詰められる中、北を目指して島内を逃げ回った。
島北部の大きな木の下で米軍の機銃掃射を受けた。脇の下に挟んだ水の入ったガラス瓶に弾が命中し、破片が脇腹に刺さって血が流れた。「やられた」と叫ぶと、兄が近くに寄ってきた。その瞬間、兄の前に砲弾が3発撃ち込まれ、土煙が上がった。ガタッと崩れ落ち、息絶える兄。腹部が真っ赤に染まっていた。
父も砲弾の破片で腕にけがを負った。「兄さんは捨てない。私が絶対連れに来るから」と渋る母を説得し、泣く泣く家族でその場を離れた。「兄は私の身代わりになった。だから、二重にも三重にも自分を責めている」と、横田さんは当時を振り返り、声を絞り出した。
兄が犠牲になった後、水を入れた一升瓶2本を首から下げた弟を先頭に、母、妊娠中だった兄の妻(義姉)、3歳のめいをおぶった横田さん、父の順番で並び進んだ。真っ暗闇を進む中で、母や弟とははぐれてしまった。
父と義姉、めいと共に4人で、海岸沿いまで行き、アダンの木の下で夜を明かした。
腕をけがしていた父が言った。「この手は邪魔だから切ってくれ。楽になる」。横田さんが断ると、近くにいた男性を呼んで腕を切らせた。
血が横田さんの全身に飛び散り、真っ赤に染まった。
父は震える手で、背中に結わえていた日の丸旗を差し出した。包まれていたのは、横田さんが学校でもらった賞状。父は意識が薄れる中、上空を飛ぶ米軍機を指さし言葉を絞り出した。「学問をしておけば、あの飛行機にもいずれ乗れる世の中が来る。絶対死ぬなよ。死なないで、沖縄に帰れ」。この言葉が遺言となった。
めいは義姉の腕に抱かれ、いつの間にか息絶えていた。敵に見つかるからと、泣く子を死に追いやった時代。「姉さんが口や鼻をふさいで、やったんでしょうね」と横田さんは振り返る。「そういう人がたくさんいるの。言えないだけで...」。
横田さんと同じように、多くの民間人や日本兵が島北部に追い詰められていた。「集団自決(強制集団死)」や、島北部の崖からの飛び降りが相次いだ。日本兵に「米軍に捕まると男は殺され、女は辱めを受ける」などと教えられ、「生きて捕虜になるのは恥」と思わされていた。
周囲に誰もいなくなった、ある日の夜。「沖縄への帰り方も分からないし、サイパンにはもう誰も生きていないはず」。横田さんと義姉は死ぬことを決め、海の中を進んだ。鼻や口に海水が入ってきて苦しくて、死にきれない。一度水を飲んでから死のうと2人で陸に上がった。
その後も逃げ惑う日々は続いた。水が手に入らず、喉の渇きに苦しめられた。目の前に水タンクの幻覚が見えたことも。体が熱を持つようになり、熱を冷ますため海岸の砂地に体をこすりつけた。もう限界、と思った時に雨が降り出し、雨水を飲んで生き延びた。その後、壕の中に隠れていると、耳に入ってきたのは投降を呼びかける米軍の放送。だが、米軍に捕まると、ひどい目に遭わされると日本兵に聞かされていたため、そのまま隠れ続けた。しばらくすると、国民学校の恩師がやってきて収容所に行くように促された。壕を出た後、米兵に取り囲まれ、収容所に連れていかれた。
横田さんは生きていた母と弟、義姉と共に1946年2月、沖縄に引き揚げた。本島南部の仮小屋でしばらくの間、暮らした。翌年になって、中部の美里村(現沖縄市)へ移り住み、母と2人、芋を栽培して必死に生活した。大きい芋は近隣の市に歩いて売りに行き、売り上げでみそなどを買った。自分たちは小さな芋しか食べられなくて、涙がこぼれた。
サイパンの戦争で56歳だった父、26歳だった兄を失った。沖縄に戻ってきて4年がたった頃、母も肺炎のため65歳であの世へ旅立った。「戦争で父と兄を失わなかったら、私や家族の人生も違ったのかな」。今振り返るとそう思う。
生活を立て直し、戦後25年ほどがたった頃、サイパンを訪ねるバス会社のツアーに参加。ようやく父や兄が眠る地を踏み、遺骨を捜し回った。父が亡くなった場所には粉々になった骨が残っていた。兄の遺骨は何度も捜したが、見つからなかった。
以来、50回以上現地へ足を運ぶ。島北部の「おきなわの塔」では、戦場を逃げ回った誰もが欲した水を並べて手を合わせる。沖縄から手作りのウサンミ(お供え料理)を持っていくこともあった。
「必ず連れに来るから、と兄と交わした約束を守らないと。この年まで生かされているからこそ、供養は絶対に忘れてはいけない」と横田さんは自らを奮い立たせる。
10年ほど前から、新基地建設が進む名護市辺野古や、土砂を積み出す名護市安和の現場に足を運び、抗議の声を上げている。サイパンの戦争では、飛行場や海軍水上基地だった港などが真っ先に攻撃された。基地建設に反対するのは「基地のある所に弾が落とされる。基地を造るのは戦争準備」との思いからだ。戦後80年がたつ今も、心穏やかに過ごすことは難しい。自宅近くを飛ぶ米軍機の爆音が、サイパンで追い立てられた戦車の音を思い出させ、寝付けなくなることもある。
1万2千人余の沖縄県人が亡くなったとされ、多くの民間人も巻き込まれた南洋群島の戦争。我如古さんは2013年、国際旅行社に入社してから南洋群島の戦争を初めて知った。昨年、添乗員として現地を訪問。朽ちた日本軍の戦車や大砲などを目にし、今も各地に戦争の爪痕が残されていることを知った。島北部にある慰霊碑「おきなわの塔」の前で涙する参加者の姿を見て、遺族の悲しみの深さを感じた。
我如古さんは横田さんの体験を聞いて「伝えるためには自分自身が学ばないと。学んで家族や友人、同僚など身近な人に向けて発信していきたい」と語った。
横田さんは言う。「その場にいなかった人に、戦争の怖さは分からない。それでも体験者から話を聞き、歴史を学び、現場で感じる。照らし合わせながらやっていくしかないの」。さらに「南洋の戦争の悲惨さを伝えることが、私の仕事。ないがしろにしたくない」と力を込め、我如古さんに「歴史をうんと勉強してよ」とメッセージを送った。
當銘悠
2018年、沖縄タイムス社入社。那覇市出身。「あの頃はみんな水がなくて苦しんだの」と目を潤ませながら、慰霊碑に水をかけていた横田さん。「自分が避難中にカミソリを持っていなければ、父は腕を切って亡くなることもなかったんじゃないかとか、次から次に考えてしまう」ともお話されていました。悲しみの記憶は、戦後80年がたった今も深く刻まれていることを感じました。横田さんはたびたび新基地建設の現場に足を運んでいます。「意見が違っても敵視をしないで、会う度に話し合えば分かり合えると思うの」との言葉に、さまざまな立場の人と意見を交わすことの大切さを教わりました。
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