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魚雷被弾、4歳泣いて海へ 真っ暗な海上で母と最期の別れ 沖縄戦前夜の学童疎開 #戦争の記憶

吉田伸
吉田伸 沖縄タイムス社会部

戦後65年間、語れなかった思いを明かしてくれました。

80年前の8月、1隻の疎開船「対馬丸」が、奄美大島近海で潜水艦の攻撃を受けて沈んだ。800人近い子どもたちを含む1600人の沖縄県民が乗っていた。約60万人の沖縄県民のうち、10万人を九州・台湾へ輸送する無謀な疎開計画。危険と分かりつつ海を渡るか、沖縄に残って地上戦に巻き込まれるか。究極の選択を迫られた末の悲劇。「家族も夢も奪われた。生き残っても地獄」。二度と繰り返さないため、戦争をどう継承するか。80年前の記憶が刻まれた場所を体験者と若者がたどった。

4歳の体験、70歳になって語り出す

「対馬丸とは縁を切りたい。関わりたくないという気持ちが強かった」
対馬丸記念館は那覇市の海を望む公園に建つ。4歳の時に母と姉が乗った疎開船対馬丸が沈められ、一人生き残った照屋恒(ひさし)さん(84)が語り続けた。小学生の時、記念館を拠点に活動する「つしま丸児童合唱団」メンバーだった上原一路(ひろ)さん(19)が真剣な表情で聞き入った。

2010年、照屋さんが70歳で語り部を引き受けたのは、体験者が高齢化し少なくなってきたから。高校の同級生で同じく対馬丸生存者に頼まれ、断れなくなった。

「今はたくさんの人に聞いてもらいたい。私にはもう後がない」

対馬丸の生還者や犠牲者が流れ着き、埋葬された奄美大島の船越海岸=2017年3月19日、鹿児島県宇検村 対馬丸の生還者や犠牲者が流れ着き、埋葬された奄美大島の船越海岸=2017年3月19日、鹿児島県宇検村

「次は沖縄が戦場になる」

那覇市で生まれてすぐ父の仕事の関係で大阪へ移り住んだ。父の規善(きぜん)さんは30代で大阪城近くの軍事工場で働いた。多くの沖縄県出身者が働いていたと聞いた。

1944年夏、那覇への帰省中に「沖縄が戦場になる」との騒ぎが起きた。日本の国防の重要拠点と位置付けていた「旧南洋群島」のサイパンが陥落したからだ。沖縄から2200キロ離れていたが、日本が絶対国防圏と位置付けた「最前線」が破られた。

日本の絶対国防圏と主な戦場 日本の絶対国防圏と主な戦場

「次は沖縄が戦場になる」と判断した国は沖縄で米軍を足止めして、本土決戦までの時間稼ぎの計画を立てる。高齢者や子ども、女性の疎開を指示。考える間もなくせき立てられた県民に動揺が広がった。

日本軍は米軍を迎え撃とうと、旧満州、中国東北部(関東軍)や中国戦線の部隊を次々と沖縄に送った。
「たくさんの兵隊が入ってきて、学校は兵舎になる。食糧も確保しないといけない」
「子どもや老人は足手まとい」
「子どもは将来の兵隊としても使えるという目的もあって疎開させたんだよ」
照屋さんは言葉をつないだ。

狙われていた対馬丸 米軍に暗号解読されていた

1944年8月19日、中国・上海で日本軍第62師団の兵士約3千人を乗せた対馬丸が那覇に着いた。沖縄近海はすでに米潜水艦が日本軍の補給路を断とうと活発化。日本艦船の多くが撃沈され、県民の犠牲者は千人以上に上っていた。

米国国立公文書館に保管されている対馬丸に関する文書によると、米潜水艦部隊は日本軍の暗号解読に成功していた無線を傍受し、対馬丸が上海から那覇へ向けて出航することを知った潜水艦ボーフィン号が追尾していた。

8月21日夕、兵士たちを降ろして空いた船倉に疎開の子どもや住民が乗船した。照屋さんは当時30歳だった母のシゲさん、7歳だった姉の美津子さんと那覇港の岸壁から小型船に乗り、沖合で対馬丸に移った。高さにおびえながら縄ばしごで上った記憶は残っている。

出港から27時間半過ぎた8月22日午後10時12分。対馬丸はボーフィン号の魚雷を受けた。

疎開船「対馬丸」 疎開船「対馬丸」

照屋さんと母は「一般疎開」で船尾に乗っていた。

寝ているところを突然、起こされた照屋さん。寝ぼけ眼で甲板に連れられた。何が起きているか分からない。「甲板に上がれ」「早く海に飛び込め」と怒声が響く。大人用のぶかぶかの救命具を着けさせられた。

母に手を引かれ、泣きながら海に飛び込んだ。3発が命中した船はわずか11分で沈んだ。学童や住民ら1788人が夜の海で遭難した。

「お姉ちゃんを捜してくる」戻らなかった母 一人で海を漂流

誰が投げたのか。浮かぶ物が次々と海に投げ込まれた。
飛び込んだ照屋さん親子は、醤油樽に十字に結われた縄にしがみついた。船は沈み、しばらくすると辺りが静かになった。

一緒に乗船していた姉の美津子さんは泊国民学校2年生。同じ対馬丸でも「学童疎開」として、照屋さん親子とは別に船首付近の船倉に乗っていた。

「お姉ちゃんを捜してくる。お前はこの手を絶対離してはいけないよ」と母は暗い夜の海に消えた。

「それが親子の別れなんです」

照屋恒さん(中央)と母のシゲさん(左)、姉の美津子さん=1943年1月31日(照屋さん提供) 照屋恒さん(中央)と母のシゲさん(左)、姉の美津子さん=1943年1月31日(照屋さん提供)

それから十数時間、海を漂流し、付近を航行していたカツオ漁船「開洋丸」に助けられた。漁船に救助された照屋さんは鹿児島、大阪、宮崎と県出身者や親戚の下を一人転々とした。

戦後、7歳で祖父母がいた沖縄に戻ったが、出征した父は戦後シベリアに抑留され、栄養失調で亡くなった。戦後も夢を抱く間もなく、生きるのに必死だった。

沖縄戦を生き抜いた祖母は戦争の体験を語ろうとしなかった。同様に戦火を生き延びた祖父は照屋さんが小学校4年生の時に病死した。

悲劇のヒーローにされ嫌だった 肩身狭く生きた戦後

茅葺きやトタン屋根の照屋さんの家には、雨水を受ける容器があちこちにあった。「雨漏りがしない家に住みたいなあ」と思って育った。調理は土間で薪を燃やす。市場で働く祖母は仕事帰りに薪を集めて束ね、バスに乗った。照屋さんがバス停からは薪をかつぐ。帰り道、祖母はラムネを買ってくれた。つらい幼少期の中で、数少ないうれしい思い出だ。

親戚など周囲から「この子ね、対馬丸で助かった子は」と声をかけられるのが嫌で嫌で仕方なかった。「悲劇のヒーローみたいに指さされる」。肩身の狭い思いを感じながら、戦後を生きてきた。

家が貧しく、家族のことも話せない。消極的で、人前に出るのが億劫だった。
対馬丸の慰霊祭には祖母に連れられて毎年、足を運んだ。手を合わせて目を閉じるが、母と姉の顔は記憶が薄れて思い浮かばない。

「私は母をどう呼んだのかも分からない。『お母さん』なのか、『おっかぁ』なのか、他にあるのか」。ため息をつくと「わびしいですよね」と言葉を継いだ。

技師として三十数年勤めた電電公社(現NTT)でも定年退職するまで、自分からは一切、対馬丸の話はしなかった。

照屋さんの若い頃の趣味はキャンプだった。リュックを背負い、友人たちと国頭村や名護市の浜を巡り、テントを張った。夜にザーッ、ザーッと波の音が聞こえて急に目が覚めた。「体が、足が引っ張られているような感じ。これがトラウマかな。今でも海が怖い。泳げないんです」

対馬丸撃沈事件から57年過ぎて、救助した奥田一雄さんから2001年に照屋恒さんに届いた手紙。「貴殿の生存が、助けてから、わからず いつも心にあり、元気でおることがわかり、ほつとしており、再会したく思います」とつづられている=2024年7月17日 対馬丸撃沈事件から57年過ぎて、救助した奥田一雄さんから2001年に照屋恒さんに届いた手紙。「貴殿の生存が、助けてから、わからず いつも心にあり、元気でおることがわかり、ほつとしており、再会したく思います」とつづられている=2024年7月17日

語るまで65年余 今伝えたいこと

2010年。対馬丸の体験を語ることを引き受けた照屋さんだったが、途方に暮れた。「自分の記憶は断片的。点として話せても、線としては話せない。何を語ればいいのか」。戦後65年が過ぎていた。

悩んだ末に行き着いたのは歴史を学ぶこと。「語り部」の役割を果たそうと、書店に何度も足を運び、証言集や専門書を買い集めた。「自分の記憶は薄いけれど、他の人のそれぞれの体験や記憶もみな違う。だから、なぜ戦争が起きたのかを知りたい」。歴史や世界を取り巻く状況に対馬丸を位置付けた。「戦争がいかに悲惨か」を伝える、新たな日々が始まった。

両親と姉を戦争で失い、戦後を必死に生きてきた照屋さん。「4歳だったから夢も何もない。親がいたら...」との照屋さんのつぶやきに、話を聞いてきた学生の上原一路さんは心が苦しくなった。上原さんは「生まれた時から戦争状態で、夢を思い描く状況もなかったという戦争の恐ろしさを聞けた」と感じた。2人は慰霊搭「小桜の塔」に足を運び、一緒に手を合わせた。

対馬丸に乗り、命を落とした犠牲者に手を合わせる照屋恒さん(左)と、上原一路さん=2024年2月26日、那覇市若狭・小桜の塔(古謝克公撮影) 対馬丸に乗り、命を落とした犠牲者に手を合わせる照屋恒さん(左)と、上原一路さん=2024年2月26日、那覇市若狭・小桜の塔(古謝克公撮影)

戦後80年を前に、国は「台湾有事」を唱え、宮古島や石垣島、与那国島に自衛隊を次々と配備、強化している。島民の九州各県への避難計画も策定作業に入った。照屋さんは「とんでもない」と危機感を募らせる。「80年前も住民を守ると言い、危険な状況で疎開させられた。今は飛行機で何万人も運ぶというけど、ミサイルが飛び交う中で安全を誰が保証できるのか。戦争で犠牲になるのは一般住民」と憤る。

今、ウクライナやガザを映すテレビ映像を見ると、胸が張り裂けそうになる。話を聞きに来る修学旅行生たちにはこう話す。「皆さん、将来に向けて夢があるでしょう。成長するに従って夢は変わっていく。でも、ただ一つ変わってほしくないのは、戦争だけは絶対にしないということ」

照屋さんは今、息子3人、孫10人、ひ孫2人に恵まれている。最近考えるようになったのは「人間一人では生きられない。家族や親戚。隣近所に同僚。みんなに支えられてきた」ということ。「私はこれから消えていく年だけど、命のたすきを孫やひ孫にリレーのように渡していく。駅伝みたいだ。次の人生をつなぐために、生かされてきたと思うようになった」。近く、その思いを子や孫に直接話してみようと考えている。

編集後記

吉田伸

吉田伸

沖縄タイムス社会部

ここ数年「台湾有事」という言葉が繰り返され、沖縄で急速に軍拡が進む。
80年前の疎開を想起させる住民避難計画も立ち上がる。照屋さんは「『沖縄に寄り添う』と決まり文句を聞くと、ワジワジーする(腹が立つ)」と非難する。

「安全保障」という概念的な言葉が、動かせない絶対的なものとして普遍性をまとい、沖縄の島々が「捨て石」になっても仕方がないような空気がつくられていると感じる。80年前、地上戦の地獄を経験した沖縄には、家族や家を失っただけでなく、生き残っても心が壊れるほどの痛苦に満ちた証言が膨大に残っている。
人々の経験を伝え、立ち止まって考える場を共有したい。

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