「私には若く見えました。両手を縛られだいぶ血を流していたのを覚えています」
熊本県八代市に暮らす塚本太さん(83)。自宅の近くに墜落した米軍機を目撃しました。初めて見た外国人は、自分のふるさとを攻撃したアメリカ人の搭乗員でした。(取材:熊本県民テレビ 松本茜)
1945年7月と8月。現在の熊本県宇城市松橋町一帯は、終戦の5日前まで続いた3度の空襲で大きな被害を受けました。2度目の空襲が行われた8月7日、空襲に参加した米軍のB25・エアパッチが現在の熊本県八代市鏡町の氷川に墜落しました。
同じ空襲に参加していた米兵は米軍の任務報告書のなかでこのように証言しています。
「天気は快晴、視界は良好だった。私は当該機の左後方から『右方向へ行け』と言った。機体のコンディションは良好に見えていたがやたらと遅くなったと感じた。(中略)当該機は編隊を離れて南方向にまっすぐに飛んだ。その後編隊位置には戻らなかった」
現在も熊本県八代市で暮らす塚本太さん(83)は、5歳の時に墜落した米軍機の搭乗員を目撃したひとりです。塚本さんの父・保さんは、慌てた様子で家に帰ってきました。
「米軍機が墜落した時、親父は田んぼに行っていました。音がして煙があがっていたので墜落した海の土手にあがっていきました。そこに米軍の飛行機がいたので、家の神棚から刃物を持って駆けつけたんです」
土手で手を挙げていた搭乗員は保さんら地元住民に拘束されました。みな興奮した様子で、今にもつかみかかりそうな雰囲気だったそうです。
「女性がいきり立っていたと現場にいた人から聞きました。カマを持って堤防に押しかけて斬り殺さんばかりに。殺すわけにはいかないと男性が止めていたそうです」
搭乗員は日本軍の駐屯地があった鏡国民学校まで連行されたとみられています。塚本さんも自宅の前で搭乗員が連行されていく様子を見ました。
「軍服のままで頭から血を流していました。アメリカ人を見たのは初めてでした。鼻が高くて目が青かったのを覚えています。搭乗員は真っ直ぐ前を向いて私達の方を見ようとはしませんでした」
戦争で息子を亡くし、搭乗員に向かって石を投げようとしたりつかみかかろうとしたりする住民もいたといいます。塚本さんは血だらけの搭乗員を見て思わず「かわいそう」と思ったものの、それ以上の感情はありませんでした。
「日本の軍人も戦地でヘマをしたら上官から手をあげられる時代です。敵地に墜落した飛行機の搭乗員は殺されるだろうと自然に思いました。戦後、戦地に行った人からは『現地の子どもを殺した』という話も聞きました。あの頃はみんな頭がおかしくなっていたと思います。戦争はしてはいけません」
「ここに実家があり、昔は門がありました。今も通ると思い出しますね。米兵がずらっと並んで歩いて行くところを見ました」
同じく熊本県八代市で暮らす古賀昭代さん(87)。9歳のときに自宅前で連行される搭乗員を目撃しました。
「(家の前に)立って妹と2人で見ていたら米兵が通っていきました。私の妹は震えていましたね。縄で縛られて顔も血まみれ、墜落したのでそのときにも怪我をしたのでしょうね」
周りには近所の人がたくさんいて連行されていく様子を見ていました。古賀さんの周りでは米兵を責め立てたり攻撃しようとしたりする人はいなかったと話します。米兵を見たと証言するのは戦争が終わってからでした。
「『見たと言えば殺されるよ、絶対に言うたらならんばい』と母親から口止めされていたのでずっと言えませんでした。時間が経った今だから言えます。『どんなことも知らんと言わなんばい』と当時は強く言われていましたから」
古賀さんの自宅は空襲で被害に遭うことはありませんでしたが、空襲警報で避難し防空壕(ごう)の真上を飛ぶ米軍機を見たときの恐怖は今でも忘れられません。学校の授業はほとんどが農作業の手伝いや草履作りで勉強をすることは許されませんでした。ハチマキを巻いた女学生がなぎなたの練習をしているのを近くの公園まで見に行ったこともあります。
戦後78年が経ち、おぼろげになりつつある記憶をつなぎあわせながら話してくれた古賀さん。9歳の少女にとって日常だった戦争は「殺し合いだった」と振り返りました。
「戦争だけはしたくないです。関係のない人が殺されて犠牲者が出るでしょう。お互いの殺し合いです、恐ろしい。戦争は絶対にだめ」
塚本さんや古賀さんが目撃した搭乗員は、福岡県で最期を迎えました。5人のうち年齢が分かっている4人は20歳から30歳。捕虜として熊本市の憲兵隊本部から福岡県の西部軍司令部へと連行され、8月15日に福岡市郊外の油山で処刑されたとみられています。
市民団体で捕虜問題を研究している古牧昭三さんが、当事者の証言とGHQの資料から突き止めた処刑場所に案内してくれました。福岡市が運営する葬儀場のすぐ近く、足場の悪い道を少し下ったところでした。GHQの裁判資料によると、この場所では3つの班が同時に処刑を行っていました。処刑の方法は斬首でした。
「捕虜の人たちは全員目隠しをされて西向きに座らされていたそうです。『や、や、や』というかけ声がとなりの班にも聞こえていたと証言記録が残されています。間違いなく処刑を待つ米兵にも聞こえていたでしょうね」
目隠しをされていたとはいえ、同胞が処刑されているのを感じる時間は、どれほど長く恐怖だったのか計り知れません。しかし同胞が殺される瞬間に立ち会う以上に残酷なことがあったと古牧さんは推察します。
「熊本県八代市鏡町で捕まった後、血を流していた米兵が手当てを受けたという証言記録も残っています。手当てを受けたとすれば普通どう思うか。なんだ、日本軍は親切にしてくれるじゃないか。自分は助かったと思うのではないか。それはすごく残酷だと感じました」
終戦後、処刑に参加した日本軍の軍人は戦犯として裁かれました。なかには命令に背けずに処刑を実行した人もいたかもしれません。一方で、処刑された搭乗員の中で「殺してやる」と思いながら爆撃していた人がどれくらいいたのでしょうか。戦争を知らない私達が学ぶべきことは「加害」「被害」という単なる事実だけではないと古牧さんは訴えます。
「斬った側も斬られた側も言葉にならない思いがあったはずです。彼らにとっては処刑や爆撃は任務なんです。一番気をつけないといけないのは、現在の価値観で判断すると全部が間違ってしまうということ。事実のみならず、当時の生活も踏まえた上で戦争を考えることが大事なスタートラインだと思います」
平和に暮らせる今の日常とはかけ離れていた戦時中の日本。戦後78年が経ち当時を知る人が少なくなるなか、"被害"と"加害"の両方の歴史とともに当事者の声を聞き、語り継いでいくことが私達に求められています。
取材:熊本県民テレビ 松本茜
取材協力:古牧昭三(POW研究会)、髙谷和生(くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク)
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