「5分遅ければ死んでいた」12歳で抱えたトラウマ 母親の腕の中で感じた空襲の恐怖 #戦争の記憶

「生まれたときから戦争は始まっていました。私にとって戦争は日常でしたね」

熊本県宇城市松橋町に暮らす分部三友さん(90)は、78年前の戦争を今も鮮明に覚えています。戦禍のさなかに幼少時代を過ごした分部さんにとって一生忘れることがない記憶は"松橋空襲"です。12歳で感じた死の恐怖は、悪夢となってその後9年も分部さんを苦しめました。(熊本県民テレビ 松本茜)


九州や本土決戦にむけて狙われた松橋町

1945年7月、8月に現在の熊本県宇城市松橋町一帯は3度の空襲で大きな被害を受けました。町には今も空襲の爪痕が残されている場所があります。旧国鉄時代の鉄橋「永代橋梁」です。県内の戦争遺跡を研究している髙谷和生さんは橋脚に機銃弾や爆弾による痕跡が約30か所残されていると調査で明らかにしました。

「米軍はこの頃、九州や本土上陸に向けて日本軍の移動を困難にさせるインフラ攻撃を頻繁に行っていました。それを象徴的に見ることができるのが永代橋梁です。こんなに近づいて痕跡が見られるのは熊本県内ではここだけです」

旧国鉄の永代橋梁 旧国鉄の永代橋梁

足場は悪いものの、橋脚の目の前まで近づくと、機銃弾が斜めに入ったような痕跡を目視で確認することもできます。

「爆弾の痕跡だけではどの爆弾で受けたダメージかはわかりませんが、いろいろな方向から攻撃を受けていたことが推測できます。この橋が相当狙われていたということは、はっきりわかりますね。」

「5分遅ければ死んでいたかも」12歳で初めて感じた死の恐怖

永代橋梁が激しい攻撃を受けた1回目の空襲の日、分部(わけべ)三友さんは当時12歳でした。子どもたちを労働力として動員する「勤労奉仕」で、植物のラミーを採取しに自宅から数キロ離れた場所へと向かっていました。青い空が広がる暑い日だったことを覚えています。採取場所に到着した途端に、警戒警報が発令され、何もしないまま慌てて自宅へ戻りました。松橋駅前を通り、自宅に到着した途端に流しっぱなしだったラジオから空襲警報が流れてきました。「敵機十数機八代付近を北上中なり」。息つく暇もなく自宅の土間に掘った小さな防空壕に飛び込みました。

「すぐにドカーンという大きな音がしたのを覚えています。まさか自分の町が爆撃されるなんて思いませんでした」

インタビューに答える分部さん インタビューに答える分部さん

家が揺れ、母親に抱かれても「ずしんずしん」と地響きが体に伝わりました。爆音はつい先ほど自分が通った松橋駅に爆弾が落ちた音でした。自宅に着くのがあと5分遅ければ、自分は爆弾が直撃して死んでいたかもしれない。死が目の前に迫ったのは生まれて初めてのことでした。

「日本の戦況を知り、いつかは自分が仇討ちをしてやると思ったこともありましたよ。でも空襲はそんなことが一瞬で吹き飛ぶほどの恐怖でしたね」

この日の空襲を皮切りに、地域一帯は計3回の空襲を受けました。空襲では防空壕から米兵の顔が見えるほど超低空飛行で戦闘機が去って行ったり、隠れていた庭の防空壕を狙ったと思われる機銃掃射が「プスップスッ」と土に刺さる感触に背筋が凍るような思いをしたりしたことを今でもはっきりと覚えています。

「空襲に見舞われる夢は21歳まで見ました。戦後のトラウマですよね。4歳下の妹は戦争が終わっても爆弾の音がすると怖がり、机の下に隠れることもありました。戦争は当時子どもだった私たちに大きな傷跡を残したんです」

幼い頃の分部さん(分部さん提供) 幼い頃の分部さん(分部さん提供)

いつ命を落とすかわからないのに...戦禍を生きた子どもたち

太平洋戦争真っ只中、学校では「天皇陛下は神」、アメリカ人は「鬼畜米英」と教えられました。

「教室の黒板の横には世界地図が貼られていて、日本軍が勝った戦地に先生が小さな日の丸の旗を立ててから授業が始まっていました。普通の映画は見ることができませんでしたが、日本軍の活躍を描いた映画は先生に連れられて見に行くことができたのを覚えています。よく見た映画は男優やシーンまで今でも頭に浮かびますね。」

毎月、戦意を高めるために設けられた「大詔奉戴日」(たいしょうほうたいび・開戦の記念日)には、日本の勝利を祈って白ご飯に梅干しだけをのせた日の丸弁当を食べました。

「戦時中も松橋町は田舎だったので平穏でしたが、1944年ごろから男性が召集されて先生不足になったので女学校を卒業したばかりの代用教員が増えたのは覚えています」

忍び寄る戦争の影...。戦況が厳しくなってきた1945年の新学期からは学校ではなく地区ごとに寺の境内などに集まる分散授業に変わり、通常の授業はなくなりました。学問ではなく農作業などを手伝う勤労奉仕の時間が増えていったのです。7月に入ると熊本大空襲をはじめ県内への攻撃も激しくなりましたが、松橋では1回目の空襲が行われた7月下旬まで勤労奉仕が続いたと分部さんは話します

「勤労奉仕中に警報が鳴り、帰り道で空襲にあって亡くなった生徒もいます。いつ命を落とすか分からない危険な状況の中で、大人も子どもも関係なく戦争遂行のために総動員で駆り出されていました」

子どもの命よりも戦争への協力が優先されていた当時の状況を「愚かどころの話ではない」と憤ります。

「このまま滅亡しても構わないという意識が指導者にあったのかと思うほどですね。国を犠牲にしてしまうほどの無茶な戦をやったと思います。将来をつくる小学生が駆り出されていたわけですから」

「未来のためにできることを」自ら語り次の世代へ継承していく

戦争体験記を説明する分部さん 戦争体験記を説明する分部さん

「私にできること、後世のためにできることはなにかと考えたとき、経験を書き残すことならできると思いました」

戦後は家業の和菓子店を継いだ忙しさもあって、自ら語る機会はありませんでした。こう思うようになったのは、地元の小学生がきっかけです。

「社会科見学で来る小学生からは和菓子のことだけでなく地域のことについて質問されます。戦争は空襲だけではありませんから、これまであまり残されてこなかった戦時中の子どもたちの生活もきちんと伝えていく必要があると感じ、本にまとめることにしました」

分部さんは、当時の松橋国民学校(現・松橋小学校)の卒業生約50人に聞き取りを行い、空襲体験や当時の教育などについてまとめた「戦争体験記」を2000年に発行しました。体験記を発行してからは、依頼があれば小学校などで子どもたちや教員に戦争について語っています。

「やっぱりこういう残酷なことはやってほしくないと思って語っていますが、大切なのはそれぞれが感じて考えることだと思っています。なるべく客観的な事実を示して、それをどう受け止めるかは皆さん次第です」

分部さんがまとめた戦争体験記 分部さんがまとめた戦争体験記

これからを生きる人たちへ 分部さんが最後に伝えたい思い

今年で91歳になる分部さん。戦争を経験していない世代に自分事として考えてもらいたいと語り続けてきましたが、年を重ねたことで体力的にも厳しくなりました。

「今回の取材がもう最後だと思っています。語り部活動の約束をして行けなくなってしまったら迷惑をかけますから。尻もちをついた拍子にけがをして入院してしまうような年齢になりました。今回の取材が最後のご奉公です」

戦争を経験していない世代に伝えたいことはなにかと分部さんに質問すると「日本が平和であることはもちろん」と前置きしたうえで、こう答えました。

「日本は人口も減少していて、これから厳しい時代になっていくと思います。戦後、個人主義が進んで近所付き合いみたいな横のつながりがどんどん薄れているように思います。戦後は大変でした。食べ物がなくて学校に弁当を持ってこられない同級生には先生がクラスみんなのおかずを少しずつ分けてあげていた。戦時中の過激な国粋主義はよくないと思っていますが、他人を思いやる気持ちは忘れないでほしいですね」

日本は78年間戦争をしていませんが、世界に目を向けるとロシアのウクライナ侵攻や紛争の絶えない地域があります。

「今も国同士の争いに巻き込まれている子どもたちがたくさんいると思います。武器も進化し、私達の時よりもはるかに大きな危険にさらされている。戦争がなくなることはないかもしれませんし理想論とわかっていますが、未来を担う子どもたちが私たちのように命の危険にさらされない安全で平和な世界で育ってほしいと思っています」

取材協力:髙谷和生(くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク)
取材:熊本県民テレビ 松本茜

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