1945年春に沖縄の特攻作戦が始まると、菊池飛行場(熊本県)は特攻の中継基地となりました。当時17歳の少年は空に憧れ、少年飛行兵として陸軍に入隊。戦友は自分の身代わりとなり、空襲で亡くなりました。94歳になった今、「生き延びた私の使命」と次世代への継承を願っています。
「『にっこり笑って、はいチーズ!』なんてできる時代じゃなかったんですよ。『おまえたちは天皇陛下のために死ぬんだ』と言われて...。戦争は殺し合いなんて、この頃はまだわかっていませんでしたね」
熊本県菊池市で生まれ育った前田祐助さん(94)。カバンから取り出したのは写真館で撮影した2枚の写真です。軍服に身を包んだ当時17歳の前田さん。遺影写真として撮影したため顔に笑みはありません。前田さんの青春時代は戦争とともにありました。
「空に憧れて飛行機に乗りたい。これはもう一種の病気みたいに燃えて。合格が決まって少年飛行兵の服に着替えたときは喜びで興奮しました。『空の戦士として死ぬんだ』ととぼけたようなことを本気で言っていましたね。そんな時代でした」
現在は住宅や工場が立ち並ぶ熊本県菊池市。150ヘクタールの広大な土地にはかつて陸軍の菊池飛行場がありました。西側には航空機での通信業務や整備を担う兵士を短期間で養成するための通信教育隊が併設されていて、多くの若者が集まりました。1944年になると戦況の悪化とともに、菊池飛行場は本土防衛の最前線として特攻隊の中継基地へと変わっていきます。前田さんが少年飛行兵として陸軍航空通信学校菊池教育隊に入隊したのは17歳でした。
「菊池飛行場は特攻隊の飛行機の整備をしていたので、その飛行機で次から次に知覧に飛んでいきました。私たちは少年飛行兵なので飛行訓練の時に会う程度ですが、待機している特攻隊の人たちのことを『先輩』と呼んでいろいろ話しましたね。でも"特攻"というきわどい話は避けていたような気がします。『今度は知覧ですか?』とそれとなくしか聞けませんでした」
1945年5月13日、空襲警報が発令されました。その日、前田さんは戦友の宮内さんと1週間兵士の世話係をする週番でした。近くの防空壕(ごう)に飛び込んだものの、昼食の時間になっても敵機は来ない。三度の飯は決められた時間に食べなければならないと決まっていたため、2人は炊事場に昼食を取りに行くことにしました。
「俺が行く。いや、俺が行く。2人分を取ってくる。この次はおまえが行け」
言い争いになったものの、戦友の宮内さんに押し切られました。宮内さんは前田さんの飯ごうを持って、炊事場へ走って行きました。
「食事を待っていると空襲警報と爆音がしました。私は少し離れた防空壕から、飯ごうを2つ持って宮内が炊事場から逃げてくるのが見えました。私がいた防空壕から50メートル離れた場所には防火壁代わりに兵舎を壊して深く掘った大きな穴があって、そこに宮内が飛び込みました。『ああ助かったらいいな』と思いましたね」
宮内さんと同じように穴に飛び込んだ人は、40人から50人ほどいました。米軍はその様子を空から見ていて、250キロ爆弾を直接穴に落とすのではなく泥をかぶせるように手前に落としたといいます。前田さんは遠くから見守ることしかできませんでした。
敵機が去り、前田さんは土で埋め尽くされた穴に駆け寄りました。人が人に積み重なるように穴に飛び込んでいたので、生き埋め状態でした。スコップなどもないため、爪がはげるまで必死に手で掘り起こしました。やっと一番上の人が出てきて鼻を上に向けて呼吸ができるようにした時に再度敵機が襲ってきました。前田さんは、後ろ髪を引かれる思いで、元いた壕に避難しました。
「顔を出してやった連中が10人ぐらい機銃掃射の的になってみんな殺されました。見ていたんです。遠くから。本当にもう何とも言えない後味の悪いことをしました。本当に怖かっただろうと思います」
第2波の敵機も遠ざかり再び仲間のもとに駆け寄ると、先ほどまで息をしていた人が死んでいました。次々と遺体を掘り出すものの、宮内さんは見つかりません。夕方までかかって一生懸命に手で堀っていくと、一番下に戦友の宮内さんがいました。宮内さんは、手で目と耳を押さえたまま冷たくなっていました。腕には昼食で食べるはずだった2つの飯ごうが携えられていたといいます。
仲間の遺体は道路に一列に並べられました。前田さんは飛行機に使うガソリンや壊れた兵舎の木材をかき集めて、仲間の遺体を一晩中燃やして赤い炎を見つめ続けました。朝になって火が消えると白い骨がずらりと並び、身に着けていたベルトなどが焼け残っている様を目にしました。その後、誰が誰かもわからないまま人数分の箱に骨を納めたと仲間から聞きました。
「私が取りに行っていれば、私が死んでいました。宮内の代わりに俺が死んでいれば、宮内も俺みたいに孫もできる年齢になっとったろうに。ずっと宮内のことを忘れた日は1日もありません」
前田さんは77年前の光景を思い出しながら、涙をこらえて震える声を絞り出しました。
当時は仲間の遺体を前にしても、軍人として死ぬことに怖さはありませんでした。しかし、終戦を迎えて家族との平和な日常を取り戻すうちに、戦争は国が合法的に認める殺し合いだと考えるようになりました。
今も世界で戦争が起きていますが、日本では平和が続いています。77年前の戦争の悲惨さを語っても「それがなんや」と言われるのではないかーー。前田さんは不安を感じ、社会の無関心さに「どこかむなしく感じる」とつぶやきます。それでも、次の世代に悲惨な戦争の事実を伝え続けています。
「生き残った仲間もほとんどが亡くなってしまいました。ロシアとウクライナは今も戦争しているし、人間が人間を殺すということがだんだん無神経になっていくのが怖い。平和でないような方向になりそうなときは、手をあげてそこは違っているよと言いたいし、一人ひとりが考えてほしい。自分が生きている限りは、戦争を知らない若い世代にも、今ある平和の尊さを伝えていければと思っています。それがここまで生き延びた私の使命ですからね」
取材・文:KKT熊本県民テレビ戦後77年特集班 吉村紗耶
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