人気アイドルグループ「アンジュルム」の上國料萌衣さん(22)。TikTokで流れてくるロシアとウクライナの惨劇を見て、「恐怖が先立ち、戦争について知ることを避けてしまっていた」と話します。そんな彼女のふるさと・熊本市で、大空襲によって16歳にして仲の良かった同級生を亡くした男性がいます。戦後77年、平成生まれの上國料さんが男性のもとを訪ね、戦争の歴史と向き合いました。
熊本市民が「街」と呼ぶアーケード街。飲食店がひしめき週末は多くの人でにぎわう場所も、アメリカ軍による空襲を受けました。終戦から1カ月半前の1945年7月1日から2日未明にかけて、B29爆撃機154機が熊本市に飛来。焼夷弾(しょういだん)で市街地の2割が被害を受け、388人が犠牲になったとされています。
「熊本大空襲」を経験したひとり、上村文男さん(93)。1枚の紙を上國料さんに見せました。紙には"23.9"と"37.5"という数字が書かれていました。「この数字はなんだと思う?」と上村さんは優しく尋ねます。
上國料萌衣さん
「えっ、なんだろう...。わからないです...。」
上村文男さん
「これは敗戦の1945年の平均寿命です。男性が23.9歳、女性が37.5歳です。信じられないでしょ。でも生きるのは25歳までということを、私たちは当時言われていました。兵隊に行って2、3年したら死ぬんだという気持ちでしたね」
1945年。当時16歳だった上村さんは県立熊本中学校に通っていたものの、勤労動員で授業がなくなり航空機の製作所でネジをつくる仕事に従事しました。熊本大空襲があった日は、午後10時を過ぎて空襲警報が鳴り響き、家族全員が就寝中に飛び起きたといいます。
上村文男さん
「空襲警報が鳴ってしばらくしてから爆音が聞こえてきて、ぱーっと明かりがつきました。照明弾で周りを明るくしたんですね。それからしばらくすると、ざーっという音がして焼夷弾が落ちた。焼夷弾の中には油が詰まっていて、飛び散ってやがて火がつきました。もうあちらこちらで火の手が上がって...」
上村さんの家にも火の手が迫りました。延焼を防ごうと日常の防火訓練どおりに水をかけたものの、意味はありませんでした。防空壕(ごう)に避難したあと、自宅にいることを諦め、家族と近くの修練場に行きました。赤く染まる空をながめながら、ふと目をやると母校の熊本中学校が焼けているのが見えたといいます。夜が明けて、わが家へ戻ると全焼していました。宿泊先を求めて母親の実家があった市街地へ向かうと、辺り一面焼け野原でした。
上國料萌衣さん
「私は熊本で戦争があったということをよく知らなくて...。当時焼け野原になった街を見てどう感じましたか」
上村文男さん
「これはもう大変なことになったなと思いました。しかし、これだけあっても日本は負けないぞとしか思わなかった。そう信じて決死の覚悟をさせられてましたからね。みんなそう思ってましたから」
空襲から2、3日がたち、上村さんは工場へ通勤することになりました。そこで知らされたのは、仲の良かった同級生の島永良行くんが焼死したことでした。
上村文男さん
「島永くんは逃げようとしていたら高齢の女性が『助けてください』と呼び止めるから助けに行ったそうなんです。その女性を助けた後、1人で逃げているときに直撃弾にあったと聞きました。火まみれになって川に飛び込んだけど駄目でそのまま息絶えたと...。特に仲良しだったから泣くに泣けなかったね」
熊本大空襲後は、家が全焼したため祖母や叔父の家を転々としながら工場へ通いました。その間も空襲が度々あり、上村さんがいた工場も被害を受けました。そして熊本大空襲から1カ月あまり、終戦を迎えました。
上村文男さん
「みんな軍国少年で鍛えられたもんだから、天皇陛下のために死ぬまで頑張らにゃいかんと。そういう教育を受けてきたからですね、信じられなかった」
戦後、 上村さんは"子どもにはうそをつかない"と決意し、中学校の教師になりました。
時間の経過とともに熊本大空襲を記憶する人たちが少しずつ減り、熊本の地を離れる遺族も増えています。「一人ひとりが空襲の記憶を心の中に留めたままでは事実が忘れさられてしまう」と感じた上村さんは、 "記憶"を"記録"にする活動に参加し、思いを同じにする人たちと体験記を冊子にまとめました。
上國料萌衣さん
「私たちは戦争経験も体験もないけど、それが当たり前の生活で...。戦争を知らない私たちに今後できることって何かありますか」
上村文男さん
「同じ年代の人や若い人が集まるような会があれば戦争の悲惨さというのはこういうものだということを伝えていただきたいと思います。戦争体験者も年をとってきました。学校の中で、特に高校生あたりには平和の問題というものを考えてもらうことが必要じゃないですかね」
77年前のふるさとの戦争体験を聞き、平和の意味を考えた上國料さん。上村さんの声を通して、今も起きている戦争から目を背けている自分に気づきました。
上國料萌衣さん
「今、実際にロシアとウクライナの戦争の映像がSNSで流れてくる。私は残酷なシーンがあったりとかするので、その情報を聞くことですら結構苦しいっていう感情になってしまって。やっぱり戦争っていうものから目を背けてしまう部分があったので、知っておくのは大事なことだなって思いました。そんな戦争が地元の熊本でもあったということは、記憶をつなぐために私ができることを探して伝えていきたいと思います」
制作:KKT熊本県民テレビ戦後77年特集班 吉村紗耶、藤木紫苑
取材:2022年7月
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