「戦争で死ぬ前にもう一度、箱根駅伝を走りたい」。学徒出陣を控えた学生たちの強い思いにより、太平洋戦争中に唯一開催された箱根駅伝から80年。今年、立教大学は史上最長ブランクで55年ぶりに出場します。OBのなかには、戦中の箱根駅伝を走ったあとに戦死した人もいます。戦後、物資が乏しく練習環境も厳しいなかで、懸命にたすきをつないだ立教大学体育会陸上競技部のOBに、戦中戦後の話を聞きました。
「うれしいもんっていうより、ありがたいという感じでしたね。走ることよりも、走っていることが、なんとも言えない喜びでした」
雨宮勇造さん(89)は戦後復興期の1954年から2年連続、立教大学のたすきをかけて「東京箱根間往復大学駅伝競走」(箱根駅伝)を走りました。
1933年に生まれた雨宮さんは、戦争のなかで子ども時代を過ごしました。小学校に入学したときには日中戦争(1937〜45年)のまっただなかで、1941年には太平洋戦争が始まります。1944年春、当時の東京・赤坂区の氷川国民学校(小学校)5年生に上がると、静岡県の沼津に集団疎開しました。
「初めはめそめそしている子もいました。でも、3〜4カ月したらみんなたくましくなったですね。それと、土地っ子にいじめられるんですよ。疎開児童は着てるもんが違うんでからかわれたり、水ぶっかけられたり。2カ月くらい続いて、いよいよ大きなけんかになった。先生や親御さんが来る騒ぎになって、それから仲良くなったんですよ。潜り方や磯の食べやすい藻を教わって。イルカを食べたこともありました。ひもじいとか情けないとかのほかに、今でも忘れられない良い思い出ですね」
1945年になると、海軍工廠(こうしょう・兵器工場)のある沼津は空襲を受けるようになりました。疎開先からも米軍爆撃機が爆弾を落とすのが見えたといいます。
「焼夷弾(しょういだん)が落ちるバーンという音が、数キロ先でも十分伝わってくるんですね。そのうち近くまで航空母艦がきて、B29ではなく単発の戦闘機がやってくる。これは危なかったですね。戦闘機がピャーっと急降下して機銃掃射を撃ってくる。とにかく恐ろしかったです」
1945年5月には東京・赤坂の自宅が山の手空襲で焼けました。
箱根駅伝は、太平洋戦争が始まる直前、日中戦争中の1941年1月の大会から中止となりました。しかし太平洋戦争中、1度だけ箱根駅伝が開催されています。
1943年、大学生の徴兵猶予が停止され、在学中の大学生も戦地に赴くことになりました。「戦争で死ぬ前にもう一度、箱根を走りたい」。学生たちが軍部や文部省(当時)に粘り強く交渉し、戦勝祈願という名目で「紀元二千六百三年 靖国神社―箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」として駅伝が実現しました。
参加したのは人数がそろった11校。空腹のなか軍部の目をうかがいながら練習し、当日はガソリン不足でサイドカーの伴走も禁止されました。ゴールでは、敵も味方も関係なく、大学の枠を超えて抱き合って泣いたといいます。
「ゴールでは皆泣いていましたね。よく走ったなと言って抱き合いました。ふつうの競技と違って、長い距離を皆で走るわけですからね。(中略)ゴールでは僕もこれが最後だという思いがありましたから、本当に幸せでした」(兒玉孝正さん・慶應大学陸上競技部OB/澤宮優「昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ」集英社)
1943年秋、箱根駅伝に出場した選手の多くが陸海軍に入りました。陸軍に入るとフィリピンや沖縄などいずれ激戦になる最前線に赴き、海軍に入ると特攻隊員になります。多くの若者は戻って来ませんでした。
戦中に開催された第22回大会で3区を走った立教大学OB・高橋和民さんは、1938年の19回大会から4度、箱根駅伝に出場しています。そして1945年に陸軍に入営、フィリピン・ルソン島で戦死しました。
2歳下の妹・百合子さんは、兄の和民さんについてこう書き記しています。
「思えば兄がこの世に存在したという証は箱根駅伝しか思いつきません。兄の公報は昭和20年4月15日戦死となっておりますが、私は兄の召天記念日は箱根駅伝の日と、ひとりぎめをし、毎年1月2日・3日を兄を偲ぶ日ときめております。箱根路をひた走る各校の選手たちに、往時の兄の姿をダブらせて応援しております。(立教の選手のいないことが悲しい)。
(中略)兄はあの時代にできたこととして母校の為、又自分の唯一の生きた証の為に走ったのだと思います。記録との挑戦に生き甲斐を感じていたのでしょう。今私は『兄さん、あなたは幸福だったわネ。さいご迄箱根駅伝に関わることが出来て』と強いて思うようにしています」(原文ママ/資料提供:立教学院展示館)
戦後の混乱期は空襲被害からの復興や食糧難で余裕がない一方で、人々はスポーツに喜びを求め、希望を抱きました。
箱根駅伝が復活したのは終戦から約1年半後の1947年1月です。沿道に大勢のファンが押し寄せました。立教大学のOBも箱根駅伝の復活に尽力しています。陸上競技部長距離総監督の原田昭夫さんが、先輩から話を聞いていました。
「戦後、箱根駅伝を復活するには、警察関係もそうなんですけど米軍と交渉しなきゃいけなかった。復活させるには相当ご苦労があったみたいですね。(大会主催の)関東学連にしてみても、箱根駅伝っていうのは本当に宝物のような財産。あそこで復活させたという思いはあるでしょうね」
雨宮さんは終戦の翌年、旧制の都立九段中学校に進学して陸上競技部に入部、1500メートルでは全国大会に出場しました。その後、先輩に誘われて立教大学の陸上競技部に入部し、箱根駅伝を目指します。
「大変でしたよ。中距離の選手もみんな(長距離を)走っていましたもんね。人数が少ないから、専門というのはできなかった。戦後でいろいろな物資がなかったけど、やっと使えるものが出てきた。でも、いいものはなかったですよね」
練習場所にも苦労しました。当時、都内に400メートルのグラウンドはほとんどなく、戦前に立教大学で教授を勤めたアメリカ人のポール・ラッシュ氏のつてで、戦争犯罪人を収容する「巣鴨プリズン」(現在の池袋駅西口・サンシャインシティ付近)の広いグラウンドを使わせてもらうこともありました。
「全員で並んで入って、出てくるときも人数チェックされて。遠くにグリーンの服を着せられた日本人がベンチに座っていたんですね。あとになってA級戦犯の人たちだったと聞きました」
1954年、2年生になった雨宮さんは箱根駅伝に初出場しました。翌55年と2年連続10区で復路のアンカーを務めています。
「箱根駅伝は長距離選手の憧れで、一度でいいから走りたいと強烈に思うようになりました。アンカーに選ばれたときは、最後まで走れるだろうかと心細かった。1回目は疲れと安心感で、気がふっと遠くなったのを覚えています」
楽しむ余裕はありませんでした。しかしあれだけ練習を積んだのだから、苦しみを乗り越えてきたのだからと思いながら懸命に走ってゴールしました。
「練習は1日15キロを目当てにやっていました。一番つらいのは、400メートルのトラックのなかで1万メートルの距離を1日に稼ぐ、これはきついですね。それが今や倍や3倍くらい走るっていうんだから。食いもんが違うと。僕らから2〜3年上までね、みんな本当に小柄なんですよ」
その後、1968年を最後に立教大学は箱根駅伝に出場できていません。テレビ生中継が始まったのは1987年、立教は今年初めて生中継に登場します。
55年ぶりの出場を決めた予選会のあと、長距離総監督の原田さんは雨宮さんに電話をしていました。
「冥土の土産ができただろ、なんて言って喜んでいました。先輩たちの頃っていうのは、スポーツをやるのも大変ですよね。先輩方のご苦労があって、そのあとはなかなか箱根に出られなくて。55年分、予選会をひたすら走っても出られなかった人たちが何百人といる。その情熱をずっと引き継いで、大学がいろんなものを準備してくれて、ようやく55年ぶりに出られると。そういう意味では先輩方に感謝しかないですね」
雨宮さんは、全コースを追いたいので沿道には行かず、テレビで後輩たちの走りを見守ることにしています。
「(箱根駅伝への出場が決まった)予選会が終わったあと、六十何人の人から電話がかかってきました。55年ぶりに出る後輩たちには、信頼できる監督と先輩のアドバイスを聞いて、自分のスピードを忘れず落ち着いて、この復活の箱根駅伝で自分の力を出し切れたという戦いをしてほしいです」
戦時中、もう一度走りたいと大学生たちが復活させた箱根駅伝。それから80年、今年も熱い思いを抱いた若者たちが新春を駆け抜けます。
参考:澤宮優「昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ」集英社
取材:2022年12月
撮影:倉増崇史
制作: Yahoo!ニュース
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