「ドイツは仲間だと思っていた」会津で発見されたフィルムに映るナチスの接近 #戦争の記憶

太平洋戦争の終結からまもなく78年。戦争体験の継承が困難になる中、「軍都・会津若松」で戦中の生活を映した貴重なフィルムが見つかった。当時を覚えている男性は「骨が浮き出るほど痩せても、勝つと信じていた」と振り返る。フィルムには、ドイツのナチ党が立ち上げた青少年組織=ヒトラー・ユーゲントが会津若松を訪れる場面も捉えられていた。三国同盟を結び、連合国と戦った日本とドイツ。2つの国の結束を高め、人々を戦争へと向かわせるために利用されたのは、会津で語り継がれる「白虎隊」だった。(制作:福島中央テレビ)


白虎隊に贈られたドイツ語の石碑

旧徳川幕府軍などと新政府軍が戦った泥沼の内戦、戊辰戦争の悲劇の地として知られるのが福島県会津若松市の飯盛山。16~17歳の少年で構成される会津藩・白虎隊士が「鶴ヶ城に戻って敵に捕まれば武士の恥、主君のために殉じよう」と、自刃した場所である。

この場所に、やや異質な石碑がある。イチョウの木の下に静かにたたずむ石碑には、ドイツ語でこう記されている。

「EIN DEUTSCHER DEN JUNGEN RITTERN VON AIZU 1935」
(会津の若き武士たちへ いちドイツ人より 1935年)

なぜ飯盛山にドイツの痕跡が残されているのか。2022年6月に奇跡的に見つかった戦時を映す映像に、ナチスの象徴=ハーケンクロイツ(鉤十字)の腕章を巻いた青年らが会津若松市を訪れた様子が映っていた。

イチョウの木の下に静かにたたずむ石碑

戦争に向かう日本を捉えた映像

映像が見つかったのは、会津若松市の隣に位置する会津美里町の旧写真館。3代目の須藤勝衛さん(81)が使わなくなった機材を整理していたところ、倉庫の中から見覚えのないフィルムを多数見つけた。

撮影したのは須藤さんの父・喜代志(きよし)さん。1930年代前半、当時希少な9.5ミリカメラを手に入れると、何かあれば身の回りを撮影していたという。フィルムには会津の雪山でのスキー、小学校の運動会、夏の水遊びなど、今と変わらない楽しそうな日常が記録されていた。

「90年前に、本当にこんな時代があったんだね」

自身が生まれる前の平和な風景を見て、須藤さんは目を細めた。しかし、時代が進むと風景は一変する。

須藤勝衛さん

撮影されていたのは1937、1938年とされる会津若松駅前の様子。出征へと行進する陸軍兵士、それを盛大に見送る家族や親戚。そして、遺骨となった仲間が入る木箱を抱えて郷土に戻る兵士たちが映っていた。

「戦争でみんな出征するが、父(喜代志さん)は身体のどこか悪かったのかな、自分が戦争に行けなかったというので、ずいぶん切なかったみたい」

会津若松には明治時代から陸軍兵士が駐屯し、一時は4500人ほどの兵士が生活するなど、「軍都」として栄えた。日中戦争が始まり、同年代の友人や仲間が陸軍に召集されるなか、入隊したくてもできなかった喜代志さんは1人取り残され虚無感を覚えたという。

「みんなが国のために頑張っているなか、自分は何もできないのか」

そう考えたとき、手元にあった9.5ミリカメラが目に入り、社会が大きく動こうとする時代を記録することを決めたという。

須藤さんの父・喜代志(きよし)さん

訪れたドイツの青年たち 利用された「白虎隊」

喜代志さんのカメラは、会津若松駅前に並ぶ外国人の青年たちも捉えていた。腕に巻く腕章には、ナチスのシンボル=ハーケンクロイツ(鉤十字)が描かれている。ドイツの指導者=アドルフ・ヒトラー率いるナチ党が結成した青少年組織=ヒトラー・ユーゲントの約30人からなる使節団である。

「ドイツのヒトラー・ユーゲントが日本に訪れて全国各地を回ったこと、会津若松にも訪れていたことは文書などで記録に残っているが、映像で見たのは初めてです。映像が出てきたと聞いたときはすごく驚きました」

映像を見つめるのは、戊辰戦争から第二次世界大戦の終戦までを研究する福島県立博物館の学芸員・栗原祐斗さん。第一次世界大戦で対立する立場だった日本とドイツは、第二次世界大戦へと向かう中でお互いの思惑が重なり、接近していった。

国際連盟から脱退して孤立した日本は1936年、「日独防共協定」を締結。ドイツが日本との結束を深めようと実現させたのが、1938年のヒトラー・ユーゲントの日本訪問だったと栗原さんは言う。

「彼らが来日する前、日本側がそれぞれの行き先を調整していたそうなのですが、前もってドイツ側から『会津若松では、白虎隊が祀られる飯盛山に行きたい』と申し出があったそうです」

飯盛山に立つ白虎隊の銅像 飯盛山に立つ白虎隊の銅像

ヒトラー・ユーゲントは、ドイツの10~18歳の青少年の参加が義務付けられ、祖国のためには犠牲を惜しまないという思想が含まれていたという。命を棄ててでも郷土を守ろうとした「白虎隊」に共通する精神を見いだし、強い興味を抱いたヒトラー・ユーゲントの使節団一行は、白虎隊士が自刃した飯盛山を訪れた。訪問後のインタビューでは、使節団の1人が「白虎隊の精神に共感を覚えた」と答えたという。

フィルムには、ヒトラー・ユーゲントが会津若松訪問を終えた際、多くの兵士や地域の人々が集まって見送る様子が映し出されていた。日中戦争の最中、こうした戦意高揚の取り組みが日本各地で行われていたという。

骨が浮き出るほど痩せても 勝つと信じた大人たち

見つかったフィルムには、1942年2月のシンガポール陥落を祝って、雪道の中で大きな看板や旗を掲げる会津の人々の行列行進も映っていた。当時の様子を覚えていたのが、会津美里町の猪俣勝男さん(85)。

「戦時中、ドイツは日本と同じ国の仲間だって感覚は子どもながら自然とありましたね。とにかく戦争のことだけですよ、朝から晩まで周りの大人たちが話すことは」

周囲に流されるがまま、大人たちの出兵の際は、声高々に万歳三唱をしていたという。

会津美里町の猪俣勝男さん(85)

戦況が悪化しても、「何があっても勝つんだ」とより強い連帯感が地域に漂った。地域住民で食料を集めては軍に寄付していたため、常に物資が不足していたと話す。そして、終戦の日を迎えた。

「天皇から話があるらしいって大人たちが玉音放送を聞いては、みんな泣いていて、悔しがっていたのは覚えてる。でも子どもの自分は『負けた』ということをわかっただけで、何の感情もなかった」

父である亘さんは会津若松に拠点を置く29連隊に所属していた。職業軍人として兵営で生活していたため、戦時中は父子が同じ屋根の下で過ごすことはなく、触れ合うこともほとんどなかった。29連隊はガダルカナル、ビルマなど激戦地に投入されたため多くの戦死者が出た。父は終戦後に何とか無事に帰ってきたが、近所には父や兄弟が戦死して帰ってこない友達も多くいたという。

「父は戦争の話を最期まで一度もしなかった。仲間がたくさん死んだから申し訳なかったのかな」

会津美里町の猪俣勝男さん(85)と家族の写真

猪俣さんが住む会津美里町は、空襲など直接の被害がなかったものの、戦時から続いた物資の不足は続いたという。主食のコメはほとんどなく、大根をコメ代わりに細かく刻んで食べていた。せめて子供にと、親は食べるのを我慢することもあった。

「とにかくまずかった。それでも生きるために食べてた。満足に食べられないから大人も子どもも骨が浮き出るほど痩せていた。もうあんな日々は送りたくない」

白虎隊とヒトラー・ユーゲント 若者の命を奪った戦争

同じころ、戦況が悪化したドイツでは、ヒトラー・ユーゲントが十分な装備を持たされずに戦地へ投入され、若い青少年らの多くが命を落とした。白虎隊、ヒトラー・ユーゲント、会津の陸軍兵士たち。いずれも多くの若者たちの命を奪ったのは、戦争にほかならない。

猪俣さんはこう話す。

「あの時代を生き抜けたのは、直接的な被害がなかったのと、自分が小さい子どもだったから。でも普通に過ごしていた周囲の大人たちは命を奪われていった、あの時の戦争がそうさせたんだよ」

会津美里町の猪俣勝男さん(85)

制作:福島中央テレビ

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