今も米軍機の事故が絶えない沖縄。1959年には小学校に米軍のジェット機が墜落しました。18人もの死者を出した事故を証言とともに振り返ります。
沖縄県宜野湾市の普天間第二小学校。学校上空付近を米軍機が通過するたびに校庭にいる児童らが避難する―という生活が続いている。その回数は2018年2月から6月8日までで合計527回に上っている。
隣接する普天間飛行場所属の米軍ヘリCH53が重さ7キロの窓枠を校庭に落下させたのが2017年12月13日。その日以来、校庭は子どもたちが自由に遊んだり、学んだりできる場所ではなくなった。
沖縄では小学校に戦闘機が墜落し、子どもたちを含む18人が犠牲になるという痛ましい事故が過去に起きている。戦後の沖縄で最大の米軍機事故と言われる「宮森小米軍ジェット機墜落事故」だ。
1959年6月39日午前10時40分ごろ、石川市(当時)上空を飛行中だった米軍嘉手納基地所属のF100D戦闘機が突然火を噴いて操縦不能となり、同市の宮森小学校近くの住宅地に墜落した。衝撃によって跳ね上がった機体は宮森小学校に突っ込み、6年生のコンクリート校舎に激突した。学校に突っ込む機体から漏れ出した大量の燃料に火が付き、住宅と2年生のトタン屋根校舎の3教室などを焼いた。
当時はミルク給食の時間帯でほとんどの児童が校内におり、18人が死亡(児童12人=うち1人は後遺症で死亡、付近住民ら6人)、210人が重軽傷を負う大惨事となった。
戦闘機のパイロットは空中で脱出。パラシュートを用いて着地し、けがはなかった。事故直後、米軍は原因について「故障による不可抗力」としていたが、事故報告書によると整備上の人為ミスが複合的に重なっていたことが判明した。
事故は生き延びた児童にも影を落とした。けがをした児童の中には両手がちぎれる夢を見て夜中にうなされたり、他の子からいじめられたりした子もいた。また不眠や不登校、大きな音を怖がるなどの症状が出た児童もいた。
制作:琉球新報 ・ Yahoo!ニュース
取材:2018年6月
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