「ここを救うために、悲しいし苦しいだろうけど、ソ連兵の犠牲になってくれと言われまして。まあどうしようもありません。涙を飲みながらそういう目にあいました」
終戦直後、中国東北部(旧満洲)でソ連兵から何十回と性暴力を受けた佐藤ハルエさん(当時20歳)の証言だ。中国人からの襲撃を受けて集団自決に追い込まれた黒川開拓団は、未婚の女性15人をソ連兵に差し出すことで生き延びた。感染症などで4人が亡くなった。帰国後も差別や偏見にさらされ、弟からも「汚れた娘」と言われた。女性たちは長い年月を経て沈黙を破り、事実を公にした。
「次に生まれるその時は 平和の国に産まれたい 愛を育て慈しみ花咲く青春綴りたい」
(「性接待」を強いられた女性の詩から)
犠牲になった女性たち(左から2人目を除く)2列目右が佐藤ハルエさん佐藤ハルエさん。1925年生まれ。2019年に初めて取材したときは94歳だった。
ハルエさんは、満洲での性暴力の実相を公にした人だ。
「どんな恥ずかしいことであっても、もうそれを公表しようと思う犠牲者がいないでしょう。亡くなっちゃって。今3人しかいない。生きているうちにこの事実を喋るのは恥ずかしいこととは全く思いません」
岐阜県旧黒川村(現白川町黒川)から満洲に渡った黒川開拓団。ハルエさんはその団員だった。
関東軍は1931年の満洲事変を機に中国に侵略、傀儡国家として満洲国を建国した。国は農業移民を積極的に募ったが、真の狙いは兵士と兵站の補給基地にすることだった。日本各地から900あまりの開拓団、およそ27万人が入植。「開拓」とは名ばかりで、多くは中国人が開墾した土地を安値で買い叩き立ち退かせた。
1932年 満洲建国会議に集合の中国・東北各省の巨頭 日本軍人らと記念撮影(出典:朝日新聞社)戦況が悪化していた1943年3月、ハルエさんは黒川開拓団の一員として何も知らずに満洲に渡った。そして2年後の1945年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を破って満洲に侵攻。開拓団は、それまで支配してきた現地の中国人から襲撃を受ける。
満洲に渡った黒川開拓団隣の開拓団が2000人余りに取り囲まれ、集団自決したという報が届く。黒川開拓団も200人、300人に包囲された。
「恐ろしい襲撃に会って、うちらも死ぬほかないとなったんです。その時に、うちのお父さんが、『そんな簡単な命じゃないんだ、どうかして日本へみんなして帰らな。死んじゃだめなんだ』と、大きな声でみんなをまとめて言ったんです」
ハルエさんの父親が流れを変えたのだった。とはいえ、根こそぎ動員で成人男性は兵隊に取られて、守る手段がない。
黒川開拓団は、敵であるソ連軍に警護と食料を頼んだ。その見返りに未婚の18歳以上の女性たち15人を人身御供として差し出したのだった。
当時20歳だったハルエさんは「性接待」を強いられた事実を淡々と語った。
「今夜はこの人、明日はこの人と当番が決めてあったんですね。そりゃ怖いし、何も分からないでしょう。言葉もわからないし。そんな滅茶苦茶でしたね」
犠牲になった女性たちを指しながら「性接待」について語る佐藤ハルエさん団員400人が避難している場所に、ベニヤ板で仕切りを作って「接待所」が設けられた。布団が敷かれ3,4人が毎日引き出された。
「一遍は死にました。梅毒にもあいましたし、チフスにもあいました。注射を打ってもらっても効かないんです。もう本当にだめかなと思いましたけど」
熱にうなされようとも、接待に出された。別の女性が証言する。
「銃を背負ってやられるんだもの。怖いじゃない。反抗したら殺される。殺されたくない。これからの人生なのに。みんなで下の方で手をつないで、『頑張りな頑張りな』『我慢しな我慢しな』『お母さん、お母さん、助けてお母さん』ってみんな小さい声で言うだけよ。お互いに励ますだけ」
隣には「医務室」が作られ、接待の後には子宮の洗浄が行われた。
洗浄を行った女性は証言する。
「夜中に起こされて。今みたいに温めるものは何もない。冷たい水で、零下30何度、40度下がる所だからね。私も泣いて洗浄するし、洗浄を受ける者も泣くしね。本当に地獄ってこういうものかと思ったよ」
親や兄弟がそばにいる。元開拓団員の男性たちは振り返る。
「400人が避難してるところだから、皆にわかっちまうわ」
「大人たちが噂をするから知ってました。自分の知人の女性もいました」
接待はソ連軍が撤退するまで2か月ほど続いた。性病で内臓をおかされるなど女性たちの4人が現地で亡くなった。
ハルエさんが引き揚げたのは1946年10月。だが、帰国後、女性たちを待ち受けていたのは、誹謗中傷だった。
「露助(ロシア人を蔑む言葉)にやられた汚れた女」「病院通いしている」「いいことしたでいいじゃなか」
本来守られるべき女性たちが、蔑まれ貶められる。
ハルエさんは、弟から「満洲帰りで汚れたような娘は、地元では誰もお嫁に貰ってくれない」と言われた。周囲で噂になっていたという。
ひるがの開拓時代の佐藤ハルエさんハルエさんは故郷を追われ、満洲の引き揚げ者が多い、同じ岐阜県の鉄路で100キロ離れたひるがのに嫁いだ。
終戦後、住居や食糧が足りない。そこで国が推奨したのが戦後開拓だ。ひるがのもその一つで、山林の雑木を一本一本切り倒し、手ぐわ一本で農地に開墾していった。
「大変と言ったって、満洲で死ぬか生きるかを通ったんです。いくらどんなことがあろうとも、ここは日本だから、ちっとも苦しいと思いません」
ハルエさんにとって、ひるがのは新たな人生を始める場所だった。
「幸せやと思いました。主人も満洲の引き揚げですので、何もかも分かって理解してくれました」
農業と酪農で暮らしをたて、4人の子どもにも恵まれた。忙しくも家族仲良く過ごした。
「性接待」を強いた後ろめたさからか、満州から戻った人たちは性暴力について口にすることを避けた。村にとっても女性にとっても性暴力被害は恥だ、公表したら家族を巻き込んでかわいそうという思いもあった。差別や偏見により被害にあった女性たちも息をひそめ、「性接待」の事実は長く「なかったこと」にされてきた。
だが、2013年7月。その事実はハルエさんによって公になった。同年4月に開館した満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)の「語り部の会」の場だった。
「どうかあなた方は、ここを救うために悲しいし、苦しいだろうけど、ソ連兵の犠牲になってくれと言われまして、まあどうしようもありません。涙を飲みながらそういう目にあいました」
なかったことにされてきた事実が、表に出た瞬間だった。
満州から生きて帰った11人の被害女性のうち、この時点で存命だったのは3人のみ。ハルエさんは真剣な表情で訴えた。「生きているうちにこの事実を喋るのは恥ずかしいこととは全く思いません」
続いて、同じ年の11月に犠牲になった一人、安江善子さんも告白した。
「生きるために犠牲になって汚れて帰ってくる。辱めを受けながら、情けない思いをしながら、自分の人生を無駄にしながら。一生お嫁に行けなくて死んでしまった娘もいるんですね」
「語り部の会」で話した後、笑顔の佐藤ハルエさん(右から3人目)実は、ハルエさんらが、声を上げたのは、この時が初めてではない。1980年代から雑誌や新聞の取材で事実を伝えようとしてきた。
ハルエさんは、雑誌の中で語っている。
「もう泣いてはいけないと思います。隠すことにより卑屈になり、戦争がぼかされ、またも危険方向にゆくのを黙って見ていられません」
しかし、他の女性への配慮などから社会に届くことはなかった。
月刊宝石1983年9月号2013年のハルエさんの公の場での告白から、黒川開拓団の遺族会が動き出した。
遺族会会長は戦後世代の藤井宏之さんに交代していた。宏之さんはこの時61歳。話を聞いて驚いた。父親が黒川開拓団員だったが、全く聞いていなかった。
宏之さんは、開拓団の女性たちのもとを何度も訪ねて何があったかを聞いて回り、女性たちの事実を残して欲しいという強い意志を受け止めた。
そして、2018年11月18日、乙女の碑の横に碑文が建てられた。70年余りたって史実が刻まれたのだ。「性接待」の事実が記され、女性たちが誹謗中傷に苦しんだこと、満洲侵略の被害と加害の両面が書き込まれた。
除幕式当日、宏之さんは除幕式で女性たちに謝罪した。
「若き女性たちの取り戻すことのできない奪われた青春と、引き揚げ後の誹謗中傷された長い年月に、大変申し訳ない思いでいっぱいであります。深くお詫びを申し上げます」
戦後世代が、親の世代の責任を引き受けたのだった。
固く握手する佐藤ハルエさん(右)と碑文建立に尽力した藤井宏之さん碑文ができて、ハルエさんのもとに大学や小中高の先生たち、大学生、高校生、社会人の女性と訪問者が相次いだ。話を聞いた先生たちは、黒川のことを近現代史の実例として授業で教えている。
碑文 ステンレス版に4000字で「性接待の事実」と「加害と被害の歴史」が記されているハルエさんは、2024年1月に99歳の人生を全うした。年末の新聞にはその年に亡くなった著名人が掲載される。地元紙の「墓碑銘」に、写真家の篠山紀信さん、指揮者の小澤征爾さんらとともにハルエさんの名前が載った。埋もれた史実を証言した勇気ある行動へのオマージュだった。
※この記事は、映画「黒川の女たち」の製作にあたりテレビ朝日が独自で取材した内容をもとにした、テレビ朝日とYahoo!ニュースとの共同連携企画です。
松原文枝
テレビ朝日ビジネスプロデュース局ビジネス開発担当部長佐藤ハルエさんが息を引き取る場面に立ち会いました。この時、女性たちが成し遂げたことを記録に残さねばという責務に駆られました。ハルエさんに突き動かされたのです。
私は彼女たちの声を届ける共同作業の一角であり、多くの皆さんにもここに参加して貰えたらと思います。
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