#あちこちのすずさん
戦時中の「日常」をたどる
2022年で8年目を迎えたYahoo!ニュース「未来に残す 戦争の記憶」プロジェクト。
戦争の記憶を伝えていくため、今夏も「#あちこちのすずさん」キャンペーンに参加します。
「#あちこちのすずさん」とは、映画「この世界の片隅に」の主人公・すずさんのように
戦時下に暮らす人々のなにげない日常のエピソードを集めるハッシュタグです。
今年もNHKと新聞社が取材した戦時中の「日常」の記事などを紹介します。
戦時中の「日常」を取材した記事一覧
(外部サイト)
-
亡き父の3通の手紙 「遺言書」に家族への言葉
1941年、太平洋戦争が始まった年に生まれました。田畑と山に囲まれた足利市田島町で祖父母と母、兄、妹、叔母の7人で、とても平穏な日常生活を送っていました。
下野新聞
-
夢は「リンゴを1人1個」 おにぎり隠された悔しさ
空腹がつらかった戦後。祖母が作るわずかな野菜を食べて過ごした。父の六つ下の弟はいつも腹を減らして泣いていた。
下野新聞
-
帰らなかった 「カズミ兄さん」
父の仕事のため、青島に住んでいました。町には日本軍の部隊があり、近くの浴場に兵隊さんが来ていました。
下野新聞
-
「だせ一億の底力」 戦時下つづった日記に
戦争当時、私は宇都宮市の「宮の橋」近くの寺院に下宿しながら、県立宇都宮農学校(現宇都宮白楊高)に通っていました。
下野新聞
-
空襲翌日に見た別世界 ホタルの大群に…
空襲翌日の1945年7月13日の記憶です。その日は、避難していた鹿沼方面の親類宅から、火の手を逃れた宇都宮の自宅に戻っていました。
下野新聞
-
みんなで逃げた空襲の夜 田んぼに浮かんでいた火の玉
当時、自宅の近所には田んぼが広がっていました。春はレンゲの花飾りを作ったり、秋はイナゴを捕まえたり、一年を通して田んぼは私たち子どもの遊び場でもありました。
下野新聞
-
鹿沼にも空襲は来た 弁当箱に代わった瀬戸物の皿
私は10歳、鹿沼市泉町に住んでいました。「今夜は眠ってはいけないよ。宇都宮の空が真っ赤だから」と母が言いました。
下野新聞
-
祖父が預かった軍馬 農作業がはかどると思ったら
明治生まれの祖父は馬車引きでした。荷物を積み、東京の方まで運んでいました。馬車の車輪や蹄鉄(ていてつ)などが納屋にあったのを覚えています。
下野新聞
-
山積みの荷物、何時間も探して 母が記した祖母の懸命な姿
1944年3月27日、当時15歳だった母は、川崎市にあった東京航空計器で働くために同級生6人と小山駅から列車に乗りました。
下野新聞
-
街角からアイス屋さんが消えて… いつの間にか戦争に
1941年夏、私は黒羽町(現大田原市)川西国民学校の1年生でした。子ども心に不思議に感じたことがあります。
下野新聞
-
#あちこちのすずさん 戦局が悪化、中国から戻るとひもじい生活に一変
「日本ではひもじい思いを味わった」。新潟市西蒲区の野澤弘さん(89)は1945年2月、中国大陸から日本に帰国した時のことを振り返る。
新潟日報
-
#あちこちのすずさん 両親と離れ、疎開暮らし 失われた日常、修学旅行も
東京生まれの少女にとって雪深い田舎暮らしは苦労の連続で、毎日が必死だった。「同じように疎開した子と励まし合っていた」。
新潟日報
-
#あちこちのすずさん 最高のおしゃれで友人と旅行、17歳 つかの間の青春
1943年初夏。新潟市西区の野上タキノさん(96)は友人たちと訪れた笹川流れ(新潟県村上市)で、寄せては返す波と戯れた。
新潟日報
-
#あちこちのすずさん 進駐軍のリンゴ、チョコレート 感じた国力の差
人懐っこい笑みに、「敵国」のイメージはすぐに吹き飛んだ。終戦後、当時暮らしていた直江津町(現新潟県上越市)に入った進駐軍は、小学1年だった上越市の高原重久さん(83)にとって、憧れの存在だった。
新潟日報
-
配給の帰り道つらく…バス止まるも、運転手の誘い断る母 #あちこちのすずさん
終戦の年の初夏の頃。食糧難はしょうゆにまで及び、一般には色と塩味程度をまねた「代用しょうゆ」が配給されるようになっていました。
カナロコ by 神奈川新聞
-
少年兵にはなれずも…目くらましに偽飛行機で米軍機だます #あちこちのすずさん
戦争中、兵隊に憧れた15歳の私は、陸軍と海軍の少年兵に計3度志願した。しかしいずれも身体検査で座高が足りないという理由で不合格。
カナロコ by 神奈川新聞
-
河原に薪を拾いに出かけたら ウサギを追い回す母に衝撃 #あちこちのすずさん
終戦の時、2歳だった私は、母と赤児の弟と一緒に栃木県にある母の実家に疎開していました。出征した父が迎えにきたのは終戦の翌年か翌々年か。その頃の記憶はおぼろげですが、私はいつも窓辺に小さな椅子を置いて、背伸びしながら「お父ちゃんが来ないねー」と外の田舎道を眺めていました。
カナロコ by 神奈川新聞
-
池田エライザさん 長崎で被爆した祖母との思い出を語る
「祖母には胸に被爆した時の傷がありました」長崎で被爆したエライザさんのおばあさん。厳格な方で、戦争については語りたがらなかったそうですが、いつもおしゃれで凛としていました。
NHK
-
94歳 安子さんが語る 歴史から消された青春の日々 「すべては生きるためだった」
「自分たちの命は、自分たちで守る」歴史から無かったことにされた少女たちの、勤労動員に励んだ日々を、94歳の安子さんが証言してくれました。
NHK
-
映画監督 片渕須直さんが語る“戦争のリアル” 「ごくありふれた日常だからこそ壊してはならない」
「今までそうだと思っていたのとはかなり違った戦時下の暮らしの姿」や、「『戦争中はひもじかった』ということをよく聞くけれど、なぜそうだったのだろう?」と、これまで「当たり前」と思っていたことを根本にまでさかのぼってとらえ直したい、という思いを聞きました。
NHK
-
特攻隊員から託された手紙 「後半はにじんで読めなかった」
島で生まれ育った宮田サダさん(96歳)は、流れ着いた兵隊たちのことを鮮明に覚えていました。「当時は神のような存在と思っていたけれど、まるで少年のようだった」そう語る特攻隊員との出来事について教えてくださいました。
NHK
-
伊野尾慧(Hey! Say! JUMP)が聞く 戦争を生き抜いた視覚障害者「目が見えない僕がマッサージを続けた理由」
2歳のとき病気で視力を失った石原さんは、1941年、11歳のときに地元・岐阜から名古屋に出ました。笛を吹いてお客さんを呼ぶ「流しのマッサージ」を始めたのです。
NHK
-
Twitterフォロワー15万人超 89歳、戦争を体験した大﨑博子さんが話す「なぜツイートし続けるのか」
ストレートに、そしてきっぱりと、当たり前のことを告げるように言う大﨑さんの言葉は私たちの胸にとても重く響いた。大﨑博子さん、89歳。Twitterで15万人以上のフォロワーを持つ“インフルエンサー”です。
NHK
-
ナチスから逃れたユダヤ難民、父は住居を与えた 「命のビザ」で来日の夫婦に
「父はとても変わった人でした。でも、今から思えば先進的だったのかもしれません」。清木さんは懐かしそうに語り始めた。
神戸新聞NEXT
-
8歳、命懸けで目指した38度線 ソ連軍から身を隠し、山越え120キロ
日本が敗戦後、旧ソ連軍に占領された場所から、彼らは命がけで脱出しました。兵庫県姫路市の長田信子さん(83)もその一人。
神戸新聞NEXT
-
「あと10日終戦が早ければ」戦争への無念、やり場のない怒りを「自分史」に
吉川さんは6人きょうだいの5番目に生まれた。家は西宮市今津地区で江戸時代から続く造り酒屋。44(昭和19)年には戦時下の企業整理で三つの酒造家と合併して「今津酒造」を立ち上げ、灘五郷の一つとしての地位を確立していた。
神戸新聞NEXT
-
わずかな食料14人で分けた ひとり親の父出征、伯父に引き取られ
空襲の標的にされることが少なかった山間部での暮らしにも、戦争は暗い影を落としました。今も兵庫県朝来市で暮らす松本由子(よしこ)さん(86)は原稿用紙7枚に丁寧な字でつらい体験を記してくれました。(谷口夏乃)
神戸新聞NEXT
-
低空で飛ぶヘリの音「今も怖い」 77年たっても消えない心の傷
トラウマ(心的外傷)を植え付けられたのは、鹿児島県指宿市にあった海軍航空隊の官舎に住んでいた44年夏のことだった。
神戸新聞NEXT
-
鼻緒に着物の端切れ巻くのがささやかな「おしゃれ」 優しかった兄、南方で戦死
丹波篠山育ちで、空襲や機銃掃射などの経験はないが、軍国主義に染まった幼少期を過ごし、1944(昭和19)年7月、長兄を戦争で失った。
神戸新聞NEXT
-
軍国少女に仕上げられた 「異常だった」終戦知り現実に
1935(昭和10)年生まれの藤本さんは6人きょうだいの下から2番目。人一倍わんぱくな子どもだったという。幼い頃、住んでいた深江のあたりは「武庫郡本庄村」だった。
神戸新聞NEXT
-
弟の墓参り、草の匂いを吸い込み「あぁ。戦争は終わったんだ」4歳の女児
4歳だった。上村孝子さん(80)=兵庫県西宮市=は二つの空襲を経験した。1945年3月。何機ものB29爆撃機が神戸の空に飛来した。
神戸新聞NEXT
-
戦下、率先して手伝う子が「いい子」 子どもたちも懸命に働いた
太平洋戦争中、子どもたちは「少国民」と呼ばれ、食料生産など戦争のために働きました。兵庫県明石市の藤田悦子さん(86)もその一人。
神戸新聞NEXT
-
脳裏に焼き付く悲しみの光景 父の戦死告知、母と祖母が泣いていた
〈若葉の季節になると、あの日のことが思い出されるのです〉。神戸市長田区の池島佳子(よしこ)さん(80)から届いた手記に、印象的な一文がありました。信じたくない知らせが届いたのは、終戦の年の初夏でした。
神戸新聞NEXT
-
食糧不足 絹の着物持って農家回る
太平洋戦争が始まった1941年、榎並さんは10歳。食べ盛りの子ども時代、食糧不足はつらい記憶です。コメを手に入れるため、榎並さんのお母さんは自分の着物を持って農家に物々交換に行きました。呉服店から嫁いだので絹製のきれいな着物ばかりです。
新潟日報
-
家も学校も燃えた…戦後の授業は校庭の木の下で
小学1年生だった夏の夜、空から爆弾が落ちてきました。あっという間に家が燃え始め、お兄さんに手を引かれ、遠くの田んぼに逃げました。
カナロコby神奈川新聞
-
疎開先での食事、ありがたい差し入れ…でも苦さにびっくり
戦争中、信州の父の実家で暮らしていた。私たちきょうだいと祖母のほか、父の妹家族が東京から疎開してきて、総勢で13人。
カナロコby神奈川新聞
-
そのパイロットはわざと山中に爆弾を落とした そう信じたい
父村田芳久(85)への聞き書きです。昭和20年7月25日に麻植郡東山村(現吉野川市美郷)の栗木と大鹿に爆弾が落ちたときのことです。
徳島新聞
-
原爆の煙を見た父
昭和20年7月4日、徳島大空襲があり、B29から投下された焼夷弾で徳島市内は火の海になった。当時、田宮で暮らしていた私、兄2人、姉2人、母、祖母は焼夷弾が降り注ぐ中、吉野川の堤防に向かって逃げ惑った。
徳島新聞
-
「苦しみ、私たちだけで」 原爆で家族、希望奪われ…それでも絶望の淵からはい上がる
76年前の8月9日。長崎市松山町の上空でさく裂した原子爆弾が、多くの人々の営みを焼き尽くした。ある11歳の少女もまた肉親を、健やかな体を、そして希望を奪われた。
長崎新聞
-
農家への買い出し、洗い物の手伝い 小川で2人並んで
食料の買い出しに農家によく行きました。買い出しの時には、小田原の新鮮な魚を持参して、大変喜ばれました。買い出し先の農家には、布の端切れをリボン代わりにして髪を二つに結んだ、丸顔の可愛い女の子がいました。
カナロコby神奈川新聞
-
「長崎から逃げよう」 父に救われた命
あの日、父が「長崎から逃げよう」と言ってくれなかったら-。長崎市内で暮らす旧姓・猪口房子さん(90)は1945年8月、長崎市から広島市に引っ越して原爆に遭った。
長崎新聞
-
私が泣きながら叫んでいたときに母は...
7月4日。私は防空頭巾をかぶって下駄(げた)ばきで走っていた。土手の一角に家族7人がそろい、遠くの建物が焼けているのを見たりしていたが、頭上で火花が落ち出し、「この場所も危ない」と土手のすぐ下にある用水池に飛び込んだ。
徳島新聞
-
旧制中学の入試で挫折した結果...
大きくなったら何になるの? 男の子は「兵隊さん」、女の子は「お嫁さん」…。この世に生を受けると同時に、何の違和感もなく、そう頭に入っていた。戦争末期の昭和18年、旧制中学の入試で挫折。少年航空隊や予科練に応募したが、色覚障害がある上、強度の近視で全部アウト。
徳島新聞
-
食べるものにも事欠いた日々 すべては近くの山野から
小生は小学生でした。尋常高等小学校から国民学校と名前が変わりました。国家騒動委員法、治安維持法が成立し、食料品や衣料品は配給制になりました。
カナロコby神奈川新聞
-
あのときもし丸新デパートに行っていたら
母が生前、折々に話していたことの記憶をたぐり寄せてみた。1945年7月4日。あの日、母は徳島医学専門学校付属病院(現・徳島大学病院)にいた。もうかなり病状が悪化していた叔父に付き添って、東祖谷山村から出て来ていたのだ。
徳島新聞
-
燃えた母の防空頭巾を水に…空襲の日、頼もしかった兄
あの頃、小学生(国民学校)の私には、戦場で生活しているように思える日々でした。静岡県に住んでいた私たち家族は、空襲警報が鳴り響くと、壕(ごう)に素早く避難。近くの空き地につくって、近所の3家族で共有していたのです。
カナロコby神奈川新聞
-
暗がりに逃げた長岡空襲 自宅新築 おにぎり配り 大工集め
長岡空襲は1945年8月1日夜にありました。アメリカ軍の爆撃機B29による焼夷弾攻撃で、長岡の街は市街地の8割を焼失し、約1500人が犠牲になりました。今泉さんは幼稚園の年長でした。
新潟日報
-
新発田の小5 曽祖母に戦時を聞く 品不足 お金は紙くず
「配給ってうれしいことじゃなかったんだ」。新発田市の小学5年山田翔聖(とあ)さん(10)が曽祖母の石井スミさん(94)から太平洋戦争中のつらい思い出を聞いて驚きの声を上げた。スミさんは目を細め「品不足で何にもなかったんだよ」と優しく語り掛けた。
新潟日報
-
登校日の学校に焼夷弾…寝坊していた私は命拾いした
1945年7月30日の朝、鹿児島県で国民学校の2年生だった私は、登校日だったのに寝坊。走って学校に向かう途中で「空襲警報だから帰れ」と言われ、慌てて家に戻りました。
カナロコby神奈川新聞
-
シベリアの捕虜収容所から見た月
フト、目が覚めた。炭鉱の労働で疲れたが、毎晩のように「日本へ帰ったら白い米の飯と豆腐の入ったみそ汁、たくあんを腹一杯食べたい」と言う戦友達は、空腹を抱えたまま静かに眠っている。どんな夢を見ているのだろう。
徳島新聞
-
好物は「フライドポテト」
昨年89歳で亡くなった、祖父(終戦時15歳)の話です。 私は生前に祖父がじゃがいもやさつまいもを食べているところを見たことがありませんでした。
NHK
-
横浜の空襲から逃げた朝 切れた鼻緒を直してくれた兵隊
1945年5月29日、女学校2年生の私は横浜大空襲に遭遇しました。その朝、登校して間もなく空襲警報。校舎を出て運動場の土手に掘った防空壕に先生と数人の生徒で入り、激しい爆音に身を屈め、じっと堪えました。げた履きだった私は滑る壕に足を取られて、鼻緒が切れてしまいました。
カナロコby神奈川新聞
-
「休戦」の張り紙を見て、「お盆だから戦争を休む?」
昭和20年(1945年)、旧制中学校(那賀農林学校)に在学していた当時には、座学はほとんどなく、毎日食糧増産や木炭製造などの農林業実習でした。ときには北の脇海岸で兵隊に交じって壕(ごう)掘りをすることもありましたし、出征兵士の家への勤労奉仕を何度も体験しました。
徳島新聞
-
「私は母の涙を見たことがない」 5人の娘を連れて満州から引き揚げた母
昨年、満州から母、姉たちと日本に引き揚げる様子を詳しく書いて送ってくれた徳島市の田中正代さん(76)が、今年は家族写真を寄せてくれました。父の出征前日に撮ったものだそうです。
徳島新聞
-
ハンサムなままの写真の中の父
ここに1枚の写真があります。父20歳、母17歳。父背広姿、母着物姿。二人とも若くて美しい。父母が結婚した昭和10年の写真です。3年後、姉が生まれ、2年後、私が生まれました。
徳島新聞
-
防空壕に入れて守った徳島高等女学校の卒業写真
戦争まっただ中だった昭和16年から昭和20年までの5年間、県立徳島高等女学校(現城東高校)に通いました。入学時には英語の授業もあり、また礼儀作法など花嫁修業のような日課もありで、入学したことをうれしく思っておりました。
徳島新聞
-
まだかまだかと山を越えて来る先生を待った
私は当時、小学校3年生ぐらいでしたでしょうか。生まれ育った徳島県佐那河内村での出来事です。突然B29が南の低い山あいから北へ向かって飛行機雲を後にはきながら突進してきました。
徳島新聞
-
大陸の青春、ときめいて 船員服の若者まぶしく
りりしく、さわやかな好青年の近くを通るのが恥ずかしく、頬を染めて足早に歩いた-。長岡市の故・岩村満洲代さん(2013年に92歳で死去)は1938年、当時は満州国だったハルビンで商船学校のタイピストとして働き始めた。
新潟日報
-
兵隊さんの涙忘れず
終戦は私が小学校3年生の時でした。私の家は、白鳥小学校のすぐ隣、並んで立っているようなところにあります。
岩手日報
-
「命懸けの仕事だったけど、みんな普通の女の子」殉職した電話交換手たち
戦時中、“通信戦士”と呼ばれた女性たちがいた。電話局で電話線を繋ぐ「電話交換手」。数カ月の訓練を受け、難しい試験に通った人だけが就ける狭き門だった。当時、女性にとって花形職業の一つとされていた。
神戸新聞NEXT
-
食券大作戦「プスン」でばれた 食べ盛り、軍需工場の青春
毎日くたくたになるまで働いた。いつも空腹だった。18歳の若者は1944年末から終戦まで、学徒勤労動員によって、群馬県の中島飛行機小泉製作所で海軍の戦闘機を造っていた。
新潟日報
-
回し読みした恋愛小説「もう持ってくるなよ」 先生がふだん以上に優しく思えたのはなぜ?
いつも通り登校すると、朝の会は抜き打ちの荷物検査から始まった。机の中には、友達から借りたばかりの小説が入っていた。
沖縄タイムス
-
空襲の焼け跡、土蔵で蒸し焼きになっていたのは…
祖父、祖母、妹と八王子に疎開していて、空襲に遭いました。赤く光る東京方面を見ていたのもつかの間、「ザー」という音とともに落ちてきた焼夷弾に見舞われ、庭先の防空壕に妹と入りました。
カナロコby神奈川新聞
-
「まだ死にたくない!」
私の祖父は1939年の戦時中に満州で生まれました。小さかった頃は、日本が戦争に勝っていたため、使用人のいる大きな家に住み、裕福な暮らしをしていたそうです。
徳島新聞
-
『大連からの引き揚げ』 山川和子さん
父が満鉄勤務で、大連に6人家族で暮らし、終戦後もとどまっていた。昭和22(1947)年2月19日、私は長女で7歳。妹と2人の弟がいた。
長崎新聞
-
戦死した時間に一升瓶が
雨竜村(空知管内雨竜町)で父は農家を継ぎ、叔父も近くで農家をしていました。叔父は妻子を残して南方戦線に出征。
北海道新聞
-
エピソード|ボクだけ特別“目玉の着物”
「わたしは、9人きょうだいの6番目に、長男として生まれました。終戦間際、私たち大家族は着る服も不足するほど困窮していました。
NHK
-
女学生の楽しみは「内線番号1番」
「16歳の頃のことです。高等女学生だったわたしは、学徒動員で呉市にある海軍の工場で働いていました。※ちなみに高等女学校とは、当時の女子が尋常小学校を卒業してから3~5年の期間を過ごす中等教育機関です。
NHK
-
#あちこちのすずさん|弟は仏壇係
「当時わたしは20歳前後。6人きょうだいの長女で、幼い弟妹の母親代わりでもありました。(日々空襲は激しくなっていました。
NHK
-
カデ飯で飢えしのぐ
戦時中、食糧不足で非農家のわが家の暮らしは大変苦しかった。主食は麦飯か、米にほかの物を混ぜて炊いたカデ飯だった。
岩手日報
-
つらかった疎開生活
九十銀行の倒産で父は職を失い、やっと東京で就職。母と幼い私の3人は池袋で生活していました。1941(昭和16)年12月8日開戦。
岩手日報
-
「チャットラー」ににらまれても ギターは一生の友達
戦時中、ギターで流行歌を弾くのが楽しみだった。94歳の今もギターはいつもそばにある。長岡市の村山康英さんは1944年、18歳で名古屋の軍需工場に学徒勤労動員されたときもギターを携えて行った。
新潟日報
-
疎開先の家を手伝う毎日 母が恋しかった
私が住んでいた横須賀では、昭和19年8月から学童疎開が始まりました。疎開児童は、国民学校3年生以上6年生まで。私は6年生で、母の里である鎌倉・大船へ縁故疎開をしました。
カナロコby神奈川新聞
-
「この子に毛布貸して」
「お願いじゃからこの子に毛布を貸して」。切羽詰まった表情で私に迫るのは、近所の方らしい奥さん。「余分がないから貸すことはできんのよ」と拒む私。
徳島新聞
-
心待ちにした靴の配給
1937年生まれの母が、「小学生の頃に靴が配給されてうれしかった」と話してくれたことがある。母の足の薬指は両足とも中指に乗るような形になっていた。
徳島新聞
-
『人生を学んだ無の時代』 福井葉月さん
北京東城第二国民学校2年の昭和20年8月15日、父に終戦を知らされた。両親の困惑した姿も7歳の私には理解できないまま、母の手をしっかり握っていた。
長崎新聞
-
『おさげのアイちゃん』 野原滿子さん
母アイ子は戦時中、長崎市にあった県防空学校で、両親と共に職員として働いていました。若き青年ばかりの中に、紅一点のアイドルでした。
長崎新聞
戦時中の「もの」にまつわるエピソード
-
焼き物に変わった炊飯釜
日中戦争が昭和12(1937)年に始まってから、軍需優先で金属や布、皮といった物資を民間の商品に使いにくくなり、さまざまな代用品が登場します。そんな中、陶器は代用品の主力に。こちら、陶器製のお釜。同様の物は昭和15(1940)年頃から姿を見せています。#あちこちのすずさんpic.twitter.com/x3KsjXUptc
— 信州戦争資料センター (@himakane1) August 28, 2019信州戦争資料センターより:この釜は、内径22センチほど。1・8升ほどのご飯を炊ける大きさです。愛知県常滑町で量産している様子を昭和16(1941)年4月ごろに撮影した写真が存在しており、それなりの数が出回ったようです。残念ながら、利用状況を確認できる手記等は見つけられませんでした。使った方がおられましたら、ぜひお話しをうかがいたいです。信州戦争資料センターは長野県民有志のグループで、戦争資料の実物を使い、戦時下の様子を紹介する展示会を毎年開いています。収蔵品は、代表が個人的に2007年9月から収集しており、4500点を超えています。主に戦争と庶民の生活にかかわるモノを集め、戦争は前線も後方もなく庶民を巻き込むという実態を伝えたいと考えています。多くの方が過去に学び、将来の道を歩む参考にしていただけるよう、収集と保存、公開に取り組んでいきます。
-
祖母が戦時中に作ったモンペ
今年もNHKのクロ現+で#あちこちのすずさん の放送をされるようで、番組のWebページで情報を募っています。このページの内容を投稿してみました。
— 太田どん (@ota_dondon) July 18, 2019
あちこちのすずさん 戦時中に作ったもんぺhttps://t.co/L10DwsC4FD太田どんさんのブログより:祖母が、戦時中に作った「もんぺ」です。最初「もんぺ」を着るように通達が出ても、女性の間では「ダボっとしたところとか、かっこ悪くて」とても嫌がったようです。(それまでは、袴で通勤していたようです。)それで、職場の若い子からか「かっこいい もんぺ」の型紙を借りて、着物を切って作ったようです。戦時下でも、女性は「おしゃれ」に気を使っていたのでしょう。
-
祖母が大切にしていたサクラビスク人形
りゅうさん
祖母が疎開時に姉とお揃いで持ち出したサクラビスク人形。室蘭に暮らしていたが、艦砲射撃の影響で、洞爺湖に疎開した。「人形は何かの時の身代わりになる」と母親から渡されたようだ。疎開先では、この人形と遊んだり、魚釣りをしたりと戦争とは無縁の楽しい生活だったと聞く。
りゅうさんより:祖母は当時7歳の小学校1年生で、5年生の姉と二人で疎開しました。お人形は、姉と同じものを持っていました。戦後、北海道に住むその姉が千葉の祖母のところに懐かしい人形を送ってくれたのですが、今回投稿するにあたって人形をよく見たら、祖母の名前である「啓子」ではなく、祖母の姉の名である「富子」と書かれていました。何十年も入れ替わっていたことに気づいたのです。祖母は今も、パソコンと太極拳を趣味に元気に過ごしています。
-
夫の、息子の無事の帰還を祈って〜千人針〜
昨年の9月に104歳で亡くなったひいばあちゃんが身につけていた、防空ずきんと、戦争に向かう夫に向けて、無事を願い、作った千本針です。Y.Y.
— 志學館大学 志賀ゼミ (@shigasemi_130) July 10, 2019
#あちこちのすずさんpic.twitter.com/l6WohM3cG7編集部より:戦場に向かう兵士のために、千人の女性がひと針ずつ赤い糸を布に縫いつけました。兵士がこの布を持って行き腹などに巻くことで、弾丸避けになると考えられたのです。「虎は千里を往き、千里を還る」との伝承から、遠い戦場に行っても無事に帰ることを願ったのでしょう。走る虎の模様に縫われた千人針もあります。
-
戦争中でもおしゃれがしたかったはず
昭和15-6年頃のおしろい。容器は紙製。17-8年頃はもっとシンプルなデザインになり、19-20年頃は生産がなくなったのでは?とのこと。
— 占D (@vella0225) June 22, 2019
容器から溢れ手についたおしろいの粉は優しい香りがしました。
#あちこちのすずさんpic.twitter.com/zyDc2VImpV編集部より:大正から昭和にかけて、東京など大都市に暮らす女性は、若い人を中心に流行の洋服を着るようになり、おしゃれをして街を闊歩していました。しかし、日中戦争が始まった1937年頃から政府は国民を戦争へ向けて総動員するとの号令をかけ、「贅沢は敵だ」などのスローガンで派手な服装や化粧をしないよう人々に圧力がかかったのです。でも、そうした中でも目立たないところで、例えば白粉を控えめにでもつける、薄く紅を差す、あるいはモンペの柄などで工夫をしておしゃれを楽しみ続けたと言います。
-
鹿児島・加治木で失われた若者の命
約80年前のミシン、棚、五右衛門風呂、防空壕。
— 志學館大学 志賀ゼミ (@shigasemi_130) July 17, 2019
五右衛門風呂は戦時中からありますが戦後にコンクリートで周りを固めてしまっています。
防空壕は加治木空襲の際、祖母の家近くに疎開する人たちが来た時に作ったものだそうです。見えづらいですが奥の方に防空壕があります。H.O.#あちこちのすずさんpic.twitter.com/Qv8lnrUyc4編集部より:鹿児島県は、沖縄戦当時いわば最前線に向き合っていて特攻出撃基地も数多く、奄美群島も含めて全域で日本国内最多の空襲を受けました。そのうち、加治木町(現姶良市)は、終戦直前の8月11日に大規模な攻撃を受け、加治木中学校(現県立加治木高校)では、15人の生徒の命が奪われたのです。
-
持ち主を失ったランドセル
#昭和館#あちこちのすずさん#特別企画展ランドセル 大阪府南河内郡高鷲国民学校(現・羽曳野市立高鷲小学校)1年生に在学中の、湖東和子さんが使用していたランドセル。湖東さんは昭和19年12月風邪をひいて寝込んでいる際に空襲警報が鳴ったため、防空壕へ入りました。pic.twitter.com/zJd5a2uwAB
— 昭和館 (@showakankudan) July 28, 2019昭和館さんより:和子さんは、警報解除後に容態が悪化して、亡くなりました。ランドセルの中には通信簿やノートなどが入っており、両親はそのまま保管しました。このランドセルは、9月8日まで東京・千代田区の昭和館で開催される「特別企画展 受け継がれる想い〜資料に見る戦中・戦後の暮らし〜」で展示されています。
-
海軍の飛行兵を目指した15歳の少年
Mさん
北九州出身の私は、海軍予科練習生(予科練)の生活と訓練の日々を描いた映画「決戦の大空へ」を見て、予科練の七つボタンの制服に憧れました。これはその履歴書の写真です。<br />親には内緒で予科練の試験を受け、狭き門でしたが、その時は私と友達の二人だけが合格しました。予科練には、当時の少年たちは純粋に憧れたもので、親には内緒で試験を受けました。<br />長男だったこともあり、親に知れると叱られ、反対されました。お母さんが、悲しんだことは忘れられません。
聞き書きボランティア「平野塾」さんより:Mさんに伺った話です。Mさんは昭和19年に航空隊に入隊しましたが、入隊した頃には既に燃料の油も尽き、憧れの飛行機には一度も乗ることはありませんでした。静岡県の西伊豆で、削岩機やダイナマイトを使って、「震洋」という特攻艇を格納する壕を掘る作業労働に従事した後、「*伏龍」という人間機雷の水際(すいさい)特攻の訓練を重ねるうちに、終戦の日を迎えました。己を捨て国に報いることに誇りを持つ教育を受け、あどけない15歳の少年であったМさんは、戦地に行くことも死ぬこともできなかった悔しさをどこにぶつけようもなかったといいます。
*伏龍…簡易潜水服を着て海底に潜み、アメリカの上陸用舟艇に向かって竹の棒の先につけた爆薬で攻撃する事
-
空襲をくぐり抜けた父の羽織
Sさん
お母さんの咄嗟の思い付きで、床下に埋めた茶箱。焼け跡の自宅を確認したときその茶箱の中で奇跡的に助かった家族の着物。74年経った今でも大事に持っています。お父さんの五つ紋の絽の羽織、その中の一つがこの着物です。
聞き書きボランティア「平野塾」さんより:福岡の八幡大空襲を生き延びたSさんに見せていただきました。戦火が激しくなると同時に、多くの住民は庭にも防空壕を掘って、そこに避難することに切り替えていきました。Sさんのお母さんは、お父さんの三つ揃いの背広、羽織袴、よそ行きの着物など大事なものだけ茶箱に詰め込みました。茶箱は油紙で包み、その上からゴザで巻いて、防空壕に入れた後、上から厚く土を被せて埋めました。当時7歳だったSさんたちは、空襲警報が鳴れば、庭の防空壕に入る予定でしたが、8月8日大空襲の日は、焼夷弾の襲撃の中、必死の思いで近くの球場へ逃げました。
地図で伝える「戦争」
(外部サイト)
世代を超えて伝えるために
NHKや新聞社、ヤフーでは、大学や高校などで戦争を伝えるためのワークショップを行いました。身近な場所などで起こった戦争の記録について、若者が自ら調べて地図を作成する過程を通じ、戦争を語り継ぐ意義を知る取り組みです。その様子を記事で紹介します。
-
「すずさん」のような戦争体験 新たな伝承手法を探る 横浜
ワークショップは7月31日に続く2回目で、約20人の学生が参加した。参加者は「山手」「川崎」などのテーマ別に、地域史を取材。横浜大空襲の記憶や戦後の占領下の暮らしなどに関する調査結果を、マップツール「Stroly」で可視化し、発表し合った。
協力:神奈川新聞
開催日:2021年7月31日,8月21日
続きを読む
-
Hey! Say! JUMP八乙女光さんと伊野尾慧さんが学生の声を伝える 「もし当時恋をしていたら、もっと切なかった…」
“戦時中の恋愛はコロナ禍で好きな人に会えない今と似ている” (収録に参加した学生)。戦争中の暮らしをアニメーションなどで伝えるNHKの特番「#あちこちのすずさん2021」(8/12(木)午後7時半~ 総合)の収録が8月1日にあり、全国各地の高校生や大学生がオンラインで参加しました。
協力:NHK
開催日:2021年8月1日
続きを読む
-
「おなかが痛い」は嘘だったかもしれない。戦時中、戦後の厳しい食事情 長野体験者が語る
長野県上田市で7月30日、戦時中の暮らしを考えるワークショップが開催され、戦時中や戦後の厳しい食料事情を大学生、高校生が学びました。信濃毎日新聞やNHKなどが協力し、長野大学、上田染谷丘(そめやおか)高校、上田千曲(ちくま)高校、上田西高校から計15名ほどが参加しました。
協力:信濃毎日新聞社、NHK
開催日:2021年7月30日
続きを読む
-
“二度目の死”を防ぐために 広島・東京の生徒が集めたエピソードたち
「8月6日に東京では平和学習をしないんですか?」広島の高校生は、原子爆弾が投下された広島と、東京での平和教育の違いに驚きました。戦時中の生活を次世代へ伝えていくプロジェクト「#あちこちのすずさん」の一環として、2021年7月27日、広島と東京の中学・高校の3校が参加したワークショップが開催されました。
協力:NHK
開催日:2021年6月〜7月
続きを読む
-
重い、知らない、受け止めきれない…それでも。戦争を伝えるワークショップ 東京の法政大学で開催
「#あちこちのすずさん」では、戦争中の出来事をどう次の世代に伝えていくかという課題について、各地の学校でのワークショップを通じて考えていきます。法政大学で行われたワークショップでは、大学生が戦争を自分事と捉えることの難しさと重要性が浮き彫りになりました。
協力:NHK
開催日:2021年5月〜6月
続きを読む
-
戦時下のプール 着物の水着で泳いだ 桐蔭学園高校でヤフーとNHKが講義
横浜市の桐蔭学園高校で6月22日、戦争伝承プロジェクト「#あちこちのすずさん」についての授業が開催されました。プロジェクトに参加するヤフーとNHKの担当者が取り組みを紹介し、同校の高校2年の生徒約60人と意見交換しました。
協力:NHK
開催日:2021年6月22日
続きを読む
みんなの「あちこちのすずさん」
戦時中の思い出の品、使っていた食器、衣服など、当時の生活の様子が伝わる「もの」がありましたら、写真を撮って
「#あちこちのすずさん」というハッシュ・タグをつけてSNSで発信してください。このページに掲載する場合、
事前にYahoo!ニュースの担当者から投稿された方のSNSのアカウントにご連絡させていただきます。
映画「この世界の片隅に」
18歳で広島・呉に嫁いだ主人公すずを中心に、戦時下に暮らす人々のなにげない日常を、温かなタッチで丁寧に描いた長編アニメーション作品。2016年の公開後、口コミで反響を呼び異例のロングランヒット。国内外の映画祭で受賞し評価を得たことでも話題となった。
©こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」
映画「この世界の片隅に」に、原作の魅力的なエピソードの数々を散りばめた新作アニメーション。すずを取り巻く人々の「さらにいくつもの人生」がより深く描かれることによって、すずの中にあったほんとうの感情が浮き彫りになる。2019年12月20日(金)全国公開
主演:のん 監督:片渕須直 原作:こうの史代(双葉社刊) 音楽:コトリンゴ 配給:東京テアトル
©2018こうの史代・双葉社 /「この世界の片隅に」製作委員会