「手がとても綺麗だった」原爆で犠牲になったピアノの先生は被爆者の治療に尽力した医師の弟だった

記事で取り上げられた医師の弟・森田親之さんというピアニストの方Nichiei Eizo/RCC

『「見つかったのは弟のあごの骨だけ」家族4人を原爆に奪われた医師 失意のなか治療もやけど患者に消毒しかできず「映像の医師は父」名乗り出た息子』
https://wararchive.yahoo.co.jp/wararchive/rcc2.html

この記事で取り上げられた医師の弟・森田親之さんというピアニストの方に、叔母がピアノを習っていたそうです。叔母は現在94歳です。(※編集部注・森田親之さんは原爆で亡くなりました。実家のピアノがあった付近であごの骨だけが見つかりました)

当時叔母は山口県岩国市の女学校に通っており、原爆の朝、女学校の校庭にいたところ「退避」の号令がかかり、防空壕へ避難したそうです。爆風やキノコ雲には気付かず、空がピカピカ光ってゴロゴロと音がしたので雷だと思ったといいます。その後、広島に新型爆弾が落ちたと聞きました。

戦時中ピアノを習っており、森田先生という方が広島からいらして教えてもらっていたそうです。東京音楽学校を卒業されていて、確かお医者さんの息子さんだったと思うと言います。戦争中でもピアノを習うというような普通の生活をしていました。先生が原爆で亡くなられて、それ以来ピアノは習わなかった。とのことでした。

原爆についての話をしていて森田先生のことを知り、調べたところ上記の記事にたどりつきました。

■投稿者
東京都 小野陽子さん

投稿者の小野さんにお願いし、森田親之さんからピアノを習っていた小野さんの叔母・谷禎子さん(94)に記者がお話を伺いました。以下、その内容です。

私がピアノを習っていたのは昭和20年前後、小学校後半から県立高等女学校の時代です。森田先生が亡くなったことは知っていましたが、当時はまだ子どもだったので、詳しいことは知りませんでした。

森田先生に習うことになったのは、ピアノが置いてあるお寺の住職に紹介されたことがきっかけです。期間は1年~2年ほどではなかったでしょうか。自宅にはピアノがなく、父親が中古のピアノを探して奔走しましたが、結局手に入りませんでした。家にはオルガンしかありませんでした。

森田先生は東京音楽学校の出身で、その才能にもかかわらず、戦争の影響で不本意な形で田舎の生徒にピアノを教えることになったのだろうと思います。先生には「戦争さえなければ」という思いもあったと思うし、そういう思いから「うんざりだ」と感じていたかもしれません。先生の指導を「冷たい」と感じることもありましたが、それは「やりたいことができない」という戦争による不遇と不満から来るものでした。

手がとても綺麗だったことが強く印象に残っていて、先生の才能を尊敬していました。才能がありながら戦時下でやりたいことができず、若くして亡くなった森田先生。本当に惜しい方を亡くしたと思います。

ピアノを習っていた小野さんの叔母・谷禎子さん(94)
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