連載「記憶をつなぐ旅」:戦争や災害、公害・環境破壊といった近現代の人々の悲しみ・苦しみの記憶を巡ることで、未来につなげていく〝旅〟を紹介します。このような旅は「ダークツーリズム」とも呼ばれ、実際に現地を訪れて感じたことや、次世代に受け継ぎたいことを考えます。
withnewsとYahoo!ニュースの共同の取材・制作です。(取材執筆・水野梓、映像制作・宮本聖二)
青々と茂った木々が目に鮮やかで、透き通った海が美しい沖縄・伊江島。沖縄本島からフェリーで30分とアクセスもよく、ダイビングスポットとしても人気です。しかし77年前には、沖縄戦が凝縮されたとも表現される「六日戦争」が繰り広げられました。この死闘をマンガで描いた新里堅進さんは、ウクライナの現状とも重ねながら、「同じことをまた繰り返さないよう、伊江島で起きたことを知ってほしい」と話します。
沖縄本島の北西部、ジンベエザメのいる「沖縄美ら海水族館」があることで有名な本部町。町の港「本部港」からフェリーで30分ほどで到着するのが伊江島です。
遠くからでも、とんがり帽子のようなかたちの「城山(ぐすくやま)」が見えます。伊江港に到着すると、土産物屋の入るオレンジ色の建物が出迎えます。
白い砂浜と青い海が美しい伊江島。ダイビングスポットとしても人気で、4月後半から5月にかけてユリが咲き誇り、「ゆり祭り」(4月29日~5月5日)が開かれるそうです。
窓を開けて車を走らせると、伊江牛の鳴き声が聞こえたり、城山への登山を楽しむ人たちの声が聞こえたり......。
こんなにのどかで自然を楽しめる島ですが、77年前にはアメリカ軍が上陸し、家ひとつ残らないような苛烈な戦闘が繰り広げられました。
島の「芳魂之塔」には沖縄戦で犠牲となった島民と軍人およそ約3500人がまつられています。疎開せず島に残った住民は約3000人といわれていますが、その半数にあたる1500人が命を落としたといいます。
今回、島に同行してくれた漫画家の新里堅進さん(75)は、昨年8月に出版した漫画『死闘伊江島戦』(琉球新報社)で、体験者の手記や米軍の記録などをもとに、戦いを克明に描き出しました。
「荒れた海を、伊江島に向かって進んだ彼らは『ここで死ぬんだ』と覚悟していたでしょう。どんな思いだったのだろう......と、島を訪れるといつも胸が痛みます」
島をすぐ占領できると考えていたアメリカ軍が上陸したのは1945年4月16日。日本軍司令部でさえ「1日で玉砕する」と考えていたため、島の武器は乏しく、戦力差は圧倒的だったといいます。
予想に反して、6日間も持ちこたえた伊江島での戦い。伊江村教育委員会が出した証言集を読んで、その激しさを知った新里さんは「腰を据えて描かなければ」と考えたそうです。
2003(平成15年)年に初めて伊江島を訪れ、7、8回にわたり通い、取材を重ねました。漫画の完成までに3年の歳月がかかりました。
港から車で5分ほど。島の中心部には、その戦闘の激しさを体現する当時の建物「公益質屋跡」が残っています。
この周辺が、島で一番の激戦地でした。当時の建物で残っているのはほぼこれだけといいます。
日本兵も住民も男女問わず、手投げ弾や竹やりを手に、アメリカ兵に突撃しました。米軍側にも200人ほどの死者が出たといいます。
新里さんは「両軍入り乱れて戦い、最後には村の女性も竹やりを手にアメリカ兵へ向かっていった場所です。こんなに住民が軍と一体となって戦ったところは伊江島のほかに思い当たりません」と話します。
米軍が21日に伊江島を攻略したと宣言した後も、住民たちはガマでの集団自決(強制集団死)によって命を奪われました。
島の北東部に今も残る「アハシャガマ」では、4月22日、日本兵が機雷とともに飛び込み、避難していた住民たちを含む150人が亡くなりました。
「生きて捕虜になって恥をさらすな」「米軍に捕まったらひどい目に遭う」といった教育を受けていた住民たちは、避難したガマで、爆破に巻き込まれたり、親が子どもに手をかけたり家族で殺し合ったりして亡くなりました。
同様の集団自決は、ほかの離島や沖縄本島のガマでも起きています。
新里さんは「今の視点なら『なんてことを』と思うでしょう。でも洗脳されてパニックになったら『とにかく死のう』と火をつけてしまう。本当にやるせない気持ちになります」と話します。
終戦を迎えても、伊江島は苦難の道を歩みました。
1948年8月6日には、米軍の上陸用舟艇(LCT)に積まれていた未使用砲弾などが荷崩れを起こして港で爆発。伊江島の住民たち107人が亡くなり、戦後最大の事故となりました。
米軍の基地にも苦しめられました。改めて伊江島の地図を見返すと、西側には米軍演習場基地があって「立ち入り禁止」になっています。
激しい地上戦を生き延びた島民は、米軍に収容されて慶良間諸島などに強制移送されました。ソテツを食べてしのぐなど生活環境は苦しく、栄養失調や疫病で亡くなった人もいたといいます。
さらに、2年ぶりに島に戻ってきた村民たちは、米軍の飛行場が建設され、家ひとつ畑ひとつ残っていない様子を目にしました。
米民政府は1953年から沖縄で農民の土地を接収していきます。伊江島でも土地を奪われ、ブルドーザーで住宅が壊され、農作物が焼き払われました。
畑を耕し自給自足の生活を送ってきた伊江島の人びとは、「乞食行進」として沖縄本島を歩き、島の窮状を訴えました。この動きが、沖縄の土地を守っていこうとする活動「島ぐるみ闘争」の導火線になりました。
1961年には「伊江島土地を守る会」が結成され、基地のそばに「団結道場」が建設されました。
非暴力で土地闘争の先頭に立ってきたのは、101歳で亡くなった阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんです。
観光スポットでもある伊江ビーチから車で数分のところには、阿波根さんが開いた反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」(9~18時開館)があります。「ヌチドゥタカラ」は「命こそ宝」という意味です。
今年はちょうど沖縄が日本に復帰して50年を迎えます。
戦争当時14歳で、阿波根さんとともに土地闘争に携わってきた平安山(へんざん)良有さんは、「戦争のために使う土地は、一坪たりとも貸さない」と契約を結ばなかった反戦地主でした。
絞り出すように「復帰して日本国憲法のもとに帰ったら、自分たちの権利は守られると思ったんですけどね」と語ってくれました。
「それなのに、法律が作られ、アメリカ軍はかえって何もしなくても土地を使えるようになった。ヤマトの人たちにもっと沖縄のことを知ってもらいたいですね」
平安山さんの自宅を訪れた時、すぐそばの基地でうなり声を上げてオスプレイが離着陸を繰り返していました。島では苦難が現在進行形で続いていることを実感させられます。
筆者は、ヌチドゥタカラの家に展示されていた言葉が心に残っています。
「広島を忘れるな 長崎を忘れるな 沖縄を忘れるな 伊江島を忘れるな
過去を忘れる者は もう一度それを繰り返す」
ロシアによるウクライナ侵攻が起きている今、ニュースで目にする街の様子が、島に残ったぼろぼろの戦跡の姿に重なります。
新里さんは「これが第三次世界大戦の引き金になったら、基地のある伊江島はまたやられてしまうかもしれない。そうしてはいけないからこそ、ここでどんなひどいことが起きたのか知ってほしい」と願います。
「自分の劇画が、伊江島を知る『入り口』として役立ってくれればうれしいですね」
伊江島蒸留所:2011年からつくられている伊江島のラム酒「イエラムサンタマリア」。島のサトウキビを絞ったシロップから造り、すっきりした味わいが特徴です。事前に申し込めば蒸留所が見学できます
ハイビスカス園:夏のイメージがあったハイビスカス、沖縄では冬の花だそうです。伊江島オリジナルの品種も見学でき、5月半ばごろまでは見頃が続くといいます
伊江島のグルメ:役場近くの「すずらん食堂」では、沖縄そばと炊き込みご飯・じゅーしぃのセットや、ラフテー(豚の角煮)などの沖縄ならではのグルメが楽しめます。伊江牛を使ったハンバーガーやハンバーグが味わえる飲食店「エースバーガー」もおすすめです
沖縄本島北部・本部町の本部港まで車で約1時間半。那覇市からは、那覇空港発の「沖縄エアポートシャトル(リゾートライナー)」や「やんばる急行」「系統番号117番高速バス(美ら海直行)」も利用可能で、所要時間は2~3時間ほど。
本部港からはフェリーで30分ほどで、島ではレンタカーやレンタサイクルも利用可能。
制作:withnews・Yahoo!ニュース
取材:2022年3月
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