「焼夷弾があめあられのように降ってきて、バーンバーンってはねて火を吹くんです。よく当たらないで生き残ったなと思います」。靖国神社の近くに住む女性は8歳のとき、1945年3月10日の東京大空襲と5月の山の手空襲を体験した。家は燃えてなくなった。「一番つらかったのは、好きだった叔父が紙切れ一枚で帰ってきたこと」。目には涙が浮かんでいた。あれから79年、初めて取材に答えた。
竹田靖子さん(87)は1936年、麹町区九段(現在の東京・千代田区)で生まれた。両親と祖母、弟と暮らす自宅からは、道路を挟んで目の前に靖国神社が見えた。
「父親は自宅で写真館を営んでいました。出征する兵士が靖国神社に参拝した帰りに記念写真を撮るんですね。それでにぎわっていました」
戦前の九段は、軍人会館と呼ばれた現在の九段会館と靖国神社、商店街があり、多くの人が行き交った。
「天皇陛下が靖国神社に参拝に来るときは、決して見てはいけないと参道側のカーテンを閉めさせられるんです。でも私は子どもだから飛び出したんですね。そしたら、憲兵に『何やっとるんだ』と怒鳴られました」
1943年になると戦況が悪化し、学徒出陣で大学生などが徴兵されるようになる。海軍では14歳や15歳の特別少年兵が最前線に送られた。小学校低学年だった竹田さんも、写真館の客層が変化していったのを覚えている。
「もう帰って来られないかもしれないから、家族写真を撮るんです。真ん中に召集される男性が立つのですが、だんだんその顔が若くなっていく。最初はお父さんやおじちゃんだったのが、息子だったり孫だったり、若い人を召集しないと兵隊が足りなくなったんですね」
竹田さんが戦中で最もつらかったのは、慕っていた叔父の死だった。築地の魚河岸で働いていた叔父は、20歳前半で出征した。
「どこへ行って、どこで死んだのかもわかないまま、白木の箱に一枚名前の書かれた紙切れが入って帰ってきました。母はわーっと泣いて、祖母は縁側で座敷にいる私たちに背中を向けて、叔父の名前を叫びながら泣き続けていました。それが小さい頃の一番強烈な記憶です」
竹田さんは肩を震わせる祖母に声をかけることもできず、呆然と見つめていた。この話をすると今でも涙が出てくる。
都市部の児童を空襲から守るための「学童疎開」も始まった。竹田さんは1944年、通っていた白百合学園の箱根・強羅の施設に疎開した。
「先生と上級生からしぼられて大変でした」。食事は、ご飯にらっきょう、アミ(小エビ)くらいだった。学童疎開はつらく、早く母のもとに帰りたいと願う日々。竹田さんは数カ月で箱根を離れた。
東京に戻った竹田さんは、1945年3月9日の深夜から10日の未明にかけての東京大空襲を経験した。325機の大型爆撃機B29が大量の焼夷弾を東京の下町に投下し、一晩で10万人が犠牲になった。
「下町からみんなゾロゾロと着の身着のまま逃げて来ました。うちの写真館は大丈夫だったので、両親や祖母が写真館の前に台を出しておにぎり作って配ったんです。子ども心に、うちにも食べるものがないのになんで配っちゃうんだろうと思ったものです」
竹田さんは戦後、このときにおにぎりを受け取ったという人の家族からお礼を言われた。「あんなにうれしかったことはありません」
その3カ月後、東京大空襲を超える460機ものB29が、杉並区、渋谷区、品川区など広い範囲に襲いかかった。5月25~26日(深夜から未明)の山の手空襲は、3600人を超す死者を出し、数十万人が住む家を失った。
その夜、竹田さんの暮らす九段にも爆音が響いた。防空壕(ごう)にいては危ないと、防空頭巾をかぶり祖母と5歳の弟と向かいの靖国神社に逃げ込んだ。
「焼夷弾があめあられのように降ってきて、バーンバーンってはねて火を吹くんです。防空頭巾に水をかけても、熱くてすぐに乾いてしまう。おばあちゃんに手を引かれて、神社のイチョウの木の下を逃げ惑いました。焼夷弾にぶつからずよく生き残ったなと思います」
竹田さんは神社から、自宅が燃え上がるのを見つめた。
「逃げているときは夢中で、『あー燃えてる』って。悲しいとかはありませんでした。メラメラと炎が立ち上がって、美しいと思いました。自分の家が燃えて大変だっていう気持ちは変わらなくありますけど、それよりもすごいきれいというか。何とも言えない感情でした」
両親は写真館に残って火を消そうとしたが、わずかなお店を残して周辺はほとんど焼け落ちた。
焼夷弾が落ちた靖国神社の境内は炎をあげていたが、社殿は無事だった。竹田さんは両親と合流し、空襲の後しばらく神社の社務所に近所の人と泊まった。その後、栃木県に家族で疎開した。
戦争体験は、竹田さんのその後の人生に大きな影響を与えた。
焼け出された人たちにおにぎりを配るような祖母の姿を見てきた一方で、配給をかすめる人、戦後のどさくさで軍にためた食料を運んで商売をする人も見た。
「指導者は結局、戦後も生き延びていい思いをしてきた。人を殺して敵も味方もあんなに亡くなって、それでいいって話じゃないでしょう。体制の不合理に抵抗し続ける人生になったのは、戦時下の体験や叔父の死があったからだと思う。絶対に戦争はあってはならないし、絶対に平和でなくてはならないと。(自分の)子どもには何かにつけて体験を話してきました」
今回初めて取材に答えたのは「これまで機会がなかったから」。10年前、20年前は戦地に行った人がたくさん生きていた。戦後79年、体験を語れるのは戦時中に子どもだった人ばかりになった。平和を願い続けてきた竹田さんは、今も続くロシアによるウクライナ侵攻やガザでの武力衝突に憤る。
「(また日本で戦争が)あったらどうするのかっていう問いかけだと思う。戦争は一度始まったら止まらない。まず話し合ってくださいと言いたいです」
取材・文:「未来に残す 戦争の記憶」編集部
映像:macca
参考資料:東京大空襲 戦災資料センター「東京大空襲とは」
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