#あちこちのすずさん

戦時中の日常をたどる

2022年で8年目を迎えたYahoo!ニュース「未来に残す 戦争の記憶」プロジェクト。

戦争の記憶を伝えていくため、今夏も「#あちこちのすずさん」キャンペーンに参加します。

「#あちこちのすずさん」とは、映画「この世界の片隅に」の主人公・すずさんのように

戦時下に暮らす人々のなにげない日常のエピソードを集めるハッシュタグです。

今年もNHKと新聞社が取材した戦時中の「日常」の記事などを紹介します。

戦時中の「日常」を取材した記事一覧

(外部サイト)

戦時中の「もの」にまつわるエピソード

  • 焼き物に変わった炊飯釜

    信州戦争資料センターより:この釜は、内径22センチほど。1・8升ほどのご飯を炊ける大きさです。愛知県常滑町で量産している様子を昭和16(1941)年4月ごろに撮影した写真が存在しており、それなりの数が出回ったようです。残念ながら、利用状況を確認できる手記等は見つけられませんでした。使った方がおられましたら、ぜひお話しをうかがいたいです。信州戦争資料センターは長野県民有志のグループで、戦争資料の実物を使い、戦時下の様子を紹介する展示会を毎年開いています。収蔵品は、代表が個人的に2007年9月から収集しており、4500点を超えています。主に戦争と庶民の生活にかかわるモノを集め、戦争は前線も後方もなく庶民を巻き込むという実態を伝えたいと考えています。多くの方が過去に学び、将来の道を歩む参考にしていただけるよう、収集と保存、公開に取り組んでいきます。

  • 祖母が戦時中に作ったモンペ

    太田どんさんのブログより:祖母が、戦時中に作った「もんぺ」です。最初「もんぺ」を着るように通達が出ても、女性の間では「ダボっとしたところとか、かっこ悪くて」とても嫌がったようです。(それまでは、袴で通勤していたようです。)それで、職場の若い子からか「かっこいい もんぺ」の型紙を借りて、着物を切って作ったようです。戦時下でも、女性は「おしゃれ」に気を使っていたのでしょう。

  • 祖母が大切にしていたサクラビスク人形

    りゅうさんより:祖母は当時7歳の小学校1年生で、5年生の姉と二人で疎開しました。お人形は、姉と同じものを持っていました。戦後、北海道に住むその姉が千葉の祖母のところに懐かしい人形を送ってくれたのですが、今回投稿するにあたって人形をよく見たら、祖母の名前である「啓子」ではなく、祖母の姉の名である「富子」と書かれていました。何十年も入れ替わっていたことに気づいたのです。祖母は今も、パソコンと太極拳を趣味に元気に過ごしています。

  • 夫の、息子の無事の帰還を祈って〜千人針〜

    編集部より:戦場に向かう兵士のために、千人の女性がひと針ずつ赤い糸を布に縫いつけました。兵士がこの布を持って行き腹などに巻くことで、弾丸避けになると考えられたのです。「虎は千里を往き、千里を還る」との伝承から、遠い戦場に行っても無事に帰ることを願ったのでしょう。走る虎の模様に縫われた千人針もあります。

  • 戦争中でもおしゃれがしたかったはず

    編集部より:大正から昭和にかけて、東京など大都市に暮らす女性は、若い人を中心に流行の洋服を着るようになり、おしゃれをして街を闊歩していました。しかし、日中戦争が始まった1937年頃から政府は国民を戦争へ向けて総動員するとの号令をかけ、「贅沢は敵だ」などのスローガンで派手な服装や化粧をしないよう人々に圧力がかかったのです。でも、そうした中でも目立たないところで、例えば白粉を控えめにでもつける、薄く紅を差す、あるいはモンペの柄などで工夫をしておしゃれを楽しみ続けたと言います。

  • 鹿児島・加治木で失われた若者の命

    編集部より:鹿児島県は、沖縄戦当時いわば最前線に向き合っていて特攻出撃基地も数多く、奄美群島も含めて全域で日本国内最多の空襲を受けました。そのうち、加治木町(現姶良市)は、終戦直前の8月11日に大規模な攻撃を受け、加治木中学校(現県立加治木高校)では、15人の生徒の命が奪われたのです。

  • 持ち主を失ったランドセル

    昭和館さんより:和子さんは、警報解除後に容態が悪化して、亡くなりました。ランドセルの中には通信簿やノートなどが入っており、両親はそのまま保管しました。このランドセルは、9月8日まで東京・千代田区の昭和館で開催される「特別企画展 受け継がれる想い〜資料に見る戦中・戦後の暮らし〜」で展示されています。

  • 海軍の飛行兵を目指した15歳の少年

    聞き書きボランティア「平野塾」さんより:Mさんに伺った話です。Mさんは昭和19年に航空隊に入隊しましたが、入隊した頃には既に燃料の油も尽き、憧れの飛行機には一度も乗ることはありませんでした。静岡県の西伊豆で、削岩機やダイナマイトを使って、「震洋」という特攻艇を格納する壕を掘る作業労働に従事した後、「*伏龍」という人間機雷の水際(すいさい)特攻の訓練を重ねるうちに、終戦の日を迎えました。己を捨て国に報いることに誇りを持つ教育を受け、あどけない15歳の少年であったМさんは、戦地に行くことも死ぬこともできなかった悔しさをどこにぶつけようもなかったといいます。

    *伏龍…簡易潜水服を着て海底に潜み、アメリカの上陸用舟艇に向かって竹の棒の先につけた爆薬で攻撃する事

  • 空襲をくぐり抜けた父の羽織

    聞き書きボランティア「平野塾」さんより:福岡の八幡大空襲を生き延びたSさんに見せていただきました。戦火が激しくなると同時に、多くの住民は庭にも防空壕を掘って、そこに避難することに切り替えていきました。Sさんのお母さんは、お父さんの三つ揃いの背広、羽織袴、よそ行きの着物など大事なものだけ茶箱に詰め込みました。茶箱は油紙で包み、その上からゴザで巻いて、防空壕に入れた後、上から厚く土を被せて埋めました。当時7歳だったSさんたちは、空襲警報が鳴れば、庭の防空壕に入る予定でしたが、8月8日大空襲の日は、焼夷弾の襲撃の中、必死の思いで近くの球場へ逃げました。

地図で伝える「戦争」

(外部サイト)

世代を超えて伝えるために

NHKや新聞社、ヤフーでは、大学や高校などで戦争を伝えるためのワークショップを行いました。身近な場所などで起こった戦争の記録について、若者が自ら調べて地図を作成する過程を通じ、戦争を語り継ぐ意義を知る取り組みです。その様子を記事で紹介します。

みんなの「あちこちのすずさん」

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