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植田一馬さん父・植田一馬は大正13年生まれ、海軍に志願しました。親は「行け」とは言わなかったそうですが、まわりの圧力や空気で志願せずにはいられない状況だったそうです。その後、長崎の佐世保で半年訓練を受けて沖縄へ出兵しました。敗戦の色が濃いなか、ボロボロの民間船で出兵したそうです。沖縄は壊滅状態、更に台湾の高雄にも行きましたがここも壊滅状態。国やメディアからは「勝っている」と聞いていたのに、整備する飛行機すら無い状況だったそうです。
爆撃を受け、防空壕への退避命令が出されましたが、その防空壕に爆弾が直撃し、多くの人が亡くなりました。遺体は人の姿をとどめておらず、肉の塊のようなものを毎日のように見ていると、かわいそう、悲しい、という気持ちが薄れていってしまうそうです。感覚が麻痺していくのだといいます。
十分な物資や食料もなく、戦友は飢えとマラリアでも亡くなったそうです。軍医ももはや「治療せず」。最期は「お母さん」と叫んで亡くなった戦友もいたそうです。父親もマラリアにかかったそうですが、命は助かりました。
終戦を迎えたものの、父は大陸で抑留され、一年後にようやく日本に帰ることができました。家の前に着いたとき、5歳ぐらいの女の子が出てきて「お母ちゃん、兵隊さんがいる」と声をあげました。それは歳の離れた妹でしたが、出征したときは2歳だったので、妹は兄だと分からなかったのです。家族は戦死したと思っていたのでびっくりしたそうです。
写真の裏には「昭和19年5月 佐世保相浦海兵團」と書かれている写真は軍服姿の1枚しか残っていません、写真の裏には佐世保相浦海兵団と記されています。父は99歳と長生きしましたが、2年前に亡くなりました。温厚な父親でした。もっともっと聞きたかったと思います。父が実際に経験したことを、戦争を知らない若い世代の方にも知ってほしい気持ちでいっぱいです。
■投稿者
奈良県 中尾ケトラ香鶴子さん(66)
太平洋戦争終結から長い年月が経ち、当時の記憶をつなぐ「人」や「もの」が失われています。
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