戦地の夫へ送った、
妻と親族からの計337通のうちの最後の手紙。
手紙は無事に持ち帰られないことが多く、何百通も残されていることはめずらしい。文面には、「◯◯出来るではないかと〜」と、自ら伏せ字(「帰還」と思われる)を用いて検閲を見越している様子も伺える。
一方で、娘の手紙には、
「お父ちゃんまたチョコレートの
おみやげもって、
早くかえって来て下さい」
とあり、子どもの手紙のためか、
検閲がゆるくなっているのが興味深い。
山形県六郷村西江股の稲荷神社であげられた祝詞。
終戦直前(昭和20年5月)にもかかわらず、
村人はまだ戦争が続くことを疑わず、
戦のために秋の実りを祈願した。
「聖戦(イクサ)」「食料(オシモノ)」と
ふりがなが振られ、
村人の誰もが声を出して祈願できた。
戦地で使用した飯盒と水筒は、
内地へ持ち帰ったあと、
実生活でも使われた。
肥料の配給量を反別で示した田肥耕配給表。
肥料すらも配給でまかなわれたため、
稲作の水準は相当低かった。
召集に備えるための奉公袋。
軍人手帳、勲章、記章、貯金通帳などを入れた。
特別高等警察の講義要綱。いわゆるマニュアル。
「全身全霊を陛下に捧げる」との記述があり、警察の一組織が天皇に帰属していたことがはっきりと示されている。
この部分がとくに大事だと赤線で強調して、勉強した形跡も残されている。
また、主要な犯罪事例のひとつとして、山形の教育運動家・村山俊太郎が検挙された事件が記載されている。
職員に向けた指針を記した銃後特高指針。
別紙で注意事項が糊付けされているのがめずらしく、
書類の整理や勉強などについて細かく注意が記されている。
特高が、じつはきわめて行政的な性質が
強い組織だったことが伺える。
出征の手順を記した應召準備手順。
旅費や携行品の準備、賃借関係の整理方法などが
記されている。
訓練の履歴や勲章の有無などの軍歴のほか、
病歴なども記し、身分証明になった軍人手帳。
戦地で使ったトランク。
戦後、遺族が遺留品を入れて保管し、
近所の火事の際はトランクだけを持って逃げたという。
遺留品を入れる袋と、戦地で使用した石鹸。
袋の表面には薄くなっているものの
「遺留品」の文字が見える。
石鹸には油のような匂いがいまだに残る。
故人の名が刻まれた万年筆。
戦死者を追悼するための
和讃(歌)を記した。
戦地からの軍事郵便。
作戦名や場所を書けないため、似たような近況報告になることも多い。
しかし、この便箋5枚にわたる部隊長から石川氏の父への手紙では、戦地でボタ餅を作り故郷の話をしながらみんなで食べたことや、
「毎日明朗に、和やかに楽しい日を送っています」と、家族に心配をかけないような記述が見られる。
戦地で弟と奇跡の対面をしたと報じる、昭和14年の報知新聞記事。
当時は戦意高揚のため虚偽の記事も多数書かれたが、
石川氏の手紙には、「作戦の間◯◯の山中で正にあいました。
元気。おたがいに無事を喜びました」と書かれており、
実際に対面したことを裏付けている。
昭和16年10月に部隊長が記した戦死報告。
昭和16年8月24日に戦死したことが遺族に伝えられた。
およそ30センチ×2メートルにわたる戦死近況。
途中から筆の運びが明らかに変化し、小隊長2名による連署であることがわかる。
「無念にも飛来せる一弾は腹部を貫通した。
瞬時頭を上げ、眼光もの凄く敵陣を凝視し壮烈なる戦死を遂げられた」と、
当時の価値観において、勇猛で模範的な戦死であったことを遺族に伝えている。
腹部貫通のため即死ではなかったことなど、
読む者がまるでその場に居合わせたかのように、
きわめて具体的に書かれている。
戦死者遺族に対し、軍からの慰問を記した詫び状。
敗戦間際と比べると遺族に対する慰問が手厚い。
遺骨引き渡しの報告。
到着の日時や場所(神戸港)、
告別式の情報などが記されている。
葬儀の様子を記録した写真。
蔵座敷で大規模に行われたことがわかる。
通常は葬儀などの記録は公にされづらくめずらしいが、
模範的な戦死であったことが、
葬儀の記念撮影をして飾られるまでに至ったと推察できる。
収集した研究資料を置賜民俗資料館・戦争資料館で展示。
地元の民俗資料から、農村の戦争資料まで多角的な視点で農村を研究する学術機関です。
先人の意思を受け継ぎ後世へ伝えるべき資料を調査研究公開しています。
公益財団法人 農村文化研究所(外部サイト)
阿部 宇洋 (あべ たかひろ)
1985生、山形県山形市出身。
山形大学学術研究院講師。
歴史民俗資料学専攻。
地域から流出する資料を収集する中で、
特高警察講義要綱や軍事郵便を発見。
遠藤 宏三 (えんどう こうぞう)
1941生、山形県米沢市出身。
(公財)農村文化研究所代表理事。
失われゆく農村の戦争資料を収集し、
戦争資料館を開館。