日本一小さな戦争資料館 -山形県米沢市農村文化研究所-この場所で戦争を語り継ぐ理由

日本が本格的に戦争に突入し始めたころ、地方ではどのような暮らしが営まれていたのでしょうか。山形県米沢市にある日本一小さな戦争資料館に託された、戦時下の村民の生活と、あるひとりの青年の従軍の軌跡を追いました。

生活 戦時下米沢の暮らし

村民の生活と祈り

戦争が進むにつれて、地方の村民の生活は苦しさを増していきました。そんななか、村民は兵隊たちとたくさんの手紙を交わして無事を確かめ合い、またお互いの心を慰め合いました。

  • 妻からの手紙

    戦地の夫へ送った、
    妻と親族からの計337通のうちの最後の手紙。
    手紙は無事に持ち帰られないことが多く、何百通も残されていることはめずらしい。文面には、「◯◯出来るではないかと〜」と、自ら伏せ字(「帰還」と思われる)を用いて検閲を見越している様子も伺える。

  • 娘からの手紙

    一方で、娘の手紙には、
    「お父ちゃんまたチョコレートの
    おみやげもって、
    早くかえって来て下さい」
    とあり、子どもの手紙のためか、
    検閲がゆるくなっているのが興味深い。

  • 記念祭副文

    山形県六郷村西江股の稲荷神社であげられた祝詞。
    終戦直前(昭和20年5月)にもかかわらず、
    村人はまだ戦争が続くことを疑わず、
    戦のために秋の実りを祈願した。
    「聖戦(イクサ)」「食料(オシモノ)」と
    ふりがなが振られ、
    村人の誰もが声を出して祈願できた。

  • 飯盒・水筒

    戦地で使用した飯盒と水筒は、
    内地へ持ち帰ったあと、
    実生活でも使われた。

  • 田肥耕配給表

    肥料の配給量を反別で示した田肥耕配給表。
    肥料すらも配給でまかなわれたため、
    稲作の水準は相当低かった。

  • 奉公袋

    召集に備えるための奉公袋。
    軍人手帳、勲章、記章、貯金通帳などを入れた。

戦時下の村民たちは、兵隊と同じく国に奉公するために毎日汗を流していました。ただ、そんな村民たちの動向につねに目を光らせる存在も、すぐそばにいたのです。

特高とは何者だったのか

戦中に、政治犯や思想犯を厳しく取り締まったのが特別高等警察でした。検挙や拷問を行ったことで、一般的には残虐非道なイメージがつきまとっています。もちろん、そうした一面があったのは事実ですが、実像は、治安維持業務を淡々と遂行するきわめて組織化された行政組織でした。

特高警察講義要綱

特別高等警察の講義要綱。いわゆるマニュアル。
「全身全霊を陛下に捧げる」との記述があり、警察の一組織が天皇に帰属していたことがはっきりと示されている。

この部分がとくに大事だと赤線で強調して、勉強した形跡も残されている。
また、主要な犯罪事例のひとつとして、山形の教育運動家・村山俊太郎が検挙された事件が記載されている。

銃後特高指針

職員に向けた指針を記した銃後特高指針。
別紙で注意事項が糊付けされているのがめずらしく、
書類の整理や勉強などについて細かく注意が記されている。
特高が、じつはきわめて行政的な性質が
強い組織だったことが伺える。

そんな監視の目があるなか、戦時下の村の若者に召集令状が届き、次々と戦地へ送り出されていきました。そして、山形県米沢市窪田(旧窪田村)に生まれたひとりの青年のもとにも、ある日一枚の紙が届きます。

戦線

日中戦争の最前線

1937年、中華民国との間で日中戦争(支那事変)が勃発しました。多くの若者が戦地へ送り込まれ、戦線はやがて大東亜戦争(太平洋戦争)へと拡大していきました。

ある一兵卒の足跡

日中戦争の最前線

石川一美二等兵
召集 應召準備手順

出征の手順を記した應召準備手順。
旅費や携行品の準備、賃借関係の整理方法などが
記されている。

出征 軍人手帳

訓練の履歴や勲章の有無などの軍歴のほか、
病歴なども記し、身分証明になった軍人手帳。

トランク

戦地で使ったトランク。
戦後、遺族が遺留品を入れて保管し、
近所の火事の際はトランクだけを持って逃げたという。

石鹸

遺留品を入れる袋と、戦地で使用した石鹸。
袋の表面には薄くなっているものの
「遺留品」の文字が見える。
石鹸には油のような匂いがいまだに残る。

手帳・万年筆

故人の名が刻まれた万年筆。
戦死者を追悼するための
和讃(歌)を記した。

前線 軍事郵便

戦地からの軍事郵便。
作戦名や場所を書けないため、似たような近況報告になることも多い。
しかし、この便箋5枚にわたる部隊長から石川氏の父への手紙では、戦地でボタ餅を作り故郷の話をしながらみんなで食べたことや、 「毎日明朗に、和やかに楽しい日を送っています」と、家族に心配をかけないような記述が見られる。

邂逅 手紙

戦地で弟と奇跡の対面をしたと報じる、昭和14年の報知新聞記事。
当時は戦意高揚のため虚偽の記事も多数書かれたが、
石川氏の手紙には、「作戦の間◯◯の山中で正にあいました。
元気。おたがいに無事を喜びました」と書かれており、
実際に対面したことを裏付けている。

新聞記事
戦死 戦死報告

昭和16年10月に部隊長が記した戦死報告。
昭和16年8月24日に戦死したことが遺族に伝えられた。

戦死状況

およそ30センチ×2メートルにわたる戦死近況。
途中から筆の運びが明らかに変化し、小隊長2名による連署であることがわかる。
「無念にも飛来せる一弾は腹部を貫通した。
瞬時頭を上げ、眼光もの凄く敵陣を凝視し壮烈なる戦死を遂げられた」と、
当時の価値観において、勇猛で模範的な戦死であったことを遺族に伝えている。
腹部貫通のため即死ではなかったことなど、
読む者がまるでその場に居合わせたかのように、
きわめて具体的に書かれている。

詫び状

戦死者遺族に対し、軍からの慰問を記した詫び状。
敗戦間際と比べると遺族に対する慰問が手厚い。

帰還 遺骨引き渡しの件

遺骨引き渡しの報告。
到着の日時や場所(神戸港)、
告別式の情報などが記されている。

葬儀写真

葬儀の様子を記録した写真。
蔵座敷で大規模に行われたことがわかる。
通常は葬儀などの記録は公にされづらくめずらしいが、
模範的な戦死であったことが、
葬儀の記念撮影をして飾られるまでに至ったと推察できる。

たとえ小さな場所でも、当時の人たちの営みが観る者に細やかに伝わり、いまと重ね合わせて思いをめぐらすことができます。未来の世代に平和への願いを伝えるために、今日もここで訪れる人を静かに待っています。

農村文化研究所とは

米沢戦争資料館 日本一小さな戦争資料館 認定証

収集した研究資料を置賜民俗資料館・戦争資料館で展示。
地元の民俗資料から、農村の戦争資料まで多角的な視点で農村を研究する学術機関です。
先人の意思を受け継ぎ後世へ伝えるべき資料を調査研究公開しています。

公益財団法人 農村文化研究所(外部サイト)

取材協力

阿部 宇洋

阿部 宇洋 (あべ たかひろ)

1985生、山形県山形市出身。
山形大学学術研究院講師。
歴史民俗資料学専攻。
地域から流出する資料を収集する中で、
特高警察講義要綱や軍事郵便を発見。

遠藤 宏三

遠藤 宏三 (えんどう こうぞう)

1941生、山形県米沢市出身。
(公財)農村文化研究所代表理事。
失われゆく農村の戦争資料を収集し、
戦争資料館を開館。

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