軍港都市とともに失われた生活 呉空襲の記憶

((U.S.)National Archives 所蔵)

戦艦「大和」のふるさと―呉。かつて日本最大の海軍工廠※を擁し、一大軍港都市として栄えた広島県呉は、戦時中に数度の大空襲を受けました。軍港、工廠、市街地が破壊され、多くの市民が犠牲になりました。その時、呉でなにが起こったのか。街の繁栄と空襲の実像に迫ります。

※工廠…軍需工場のこと

01Navy Shipyard

日本有数の
海軍工廠

明治政府は明治22年、呉に鎮守府※を開庁しました。周囲を山と島に囲まれた呉湾は、軍港として理想的な地形でした。静かな漁村・農村だった呉は、港と市街地が形成され、一気に「海軍の街」として発展していきます。軍艦や兵器を造る海軍工廠も拡張され工員数も増加、工廠内には列車が走り、建艦、改修工事などとフル稼働でした。国防につながる工廠で働くことは彼らの誇りとなり、工廠勤務の男性は女性に人気でした。

※鎮守府…艦隊の根拠地となる軍港と、兵員育成や物資補給を統括する機関

戦艦大和の写真
技術の粋を集めて建造された当時世界最大の戦艦「大和」 (資料提供:大和ミュージアム)
艦艇の写真
呉海軍工廠で建造された艦艇は133隻におよぶという (資料提供:呉市文化スポーツ部文化振興課)

主要な海軍工廠の工員数(人)
(昭和15年10月時点)

呉海軍工廠の工員数、56650人

0

出典:『昭和造船史(第一巻)』日本造船学会 編(1977年、原書房)

02Kure City

発展する
呉の街

2万人だった呉の人口は最大40万人まで急増しました。海軍軍人、工廠の工員には独身者が多く、常に男性人口が女性人口を上回っていたそうです。娯楽施設も立ち並び、劇場、寄席、映画館、旅館、料亭、カフェー・喫茶店もつぎつぎと開店します。街は大いに賑わい、活気にあふれ「景気は呉工廠から」と報道されるほどでした。

呉の写真
大通りの賑わいが、軍港都市・呉の発展を象徴している (資料提供:呉市文化スポーツ部文化振興課)

金の降る風、どこから吹やるヨ、トコドッコイショ 呉の軍港のサ、トコドッコイショ、波止場から 『呉小唄』

出典:『呉市と海軍』呉市(1935年、呉市)
ネオン街の写真
カフェーや食堂のネオンが街にひしめいた(昭和13年ころ) (資料提供:呉市文化スポーツ部文化振興課)

03Kure Navy

市民の身近に
あった海軍

街では、海軍団子、軍港煎餅、戦勝餅などの菓子が売られ、艦隊入港時には、「海の勇士歓迎」「祝無敵艦隊入港」のビラや立て看板が市中に掲げられました。また、海軍軍人や関係者などの住宅不足が深刻な問題だったため、土地を持つ民間の資産家は市街地に住宅を建て、彼らに貸し、商売をしていました。市民と海軍は常に密接な関係でした。

水兵の写真
入港時には多くの水兵が上陸し、街に繰り出す(昭和13年ころ) (資料提供:呉市文化スポーツ部文化振興課)

海軍とともに栄えた
酒造 三宅本店

千福

「千福」で有名な三宅本店は、海軍へお酒を納品していました。従来、日本酒は1年酒とされ、暑さに弱く変質するとされていました。三宅本店のお酒を満載した軍艦「浅間」と練習艦隊が7カ月間の長い航海に出ます。お酒は、赤道を2度通過しても変質せず、少しも味が変わっていなかったため高い評価をうけ、海軍から品質証明書が贈られました。

呉鶴のラベル
海軍に納められた銘柄「呉鶴」のラベル
品質証明書
長さが約1.5メートルもある大きな品質証明書
空襲の写真 ((U.S.)National Archives 所蔵)

04Air Raids

空襲で壊滅した
海軍と呉の市街地

昭和20年3月19日、呉軍港が空襲にあいます。5月5日に広の第11空廠、6月22日には呉工廠造兵部門が猛爆されました。市民に大きな被害をもたらしたのは、7月1日深夜から2日未明にかけての市街地への焼夷弾による無差別爆撃で、一夜にして街は焼野原に。7月24日、7月25日、7月28日と複数回にわたり、停泊中の軍艦が攻撃され、呉軍港は軍艦の墓場となってしまいました。

空襲の写真
3月19日、呉軍港に停泊中の艦艇が猛爆撃を受ける ((U.S.)National Archives 所蔵)
軍艦の写真
燃料不足のため呉湾に停泊中の多くの軍艦が空襲を受けた ((U.S.)National Archives 所蔵)
火災の写真
火の海となった市街。消防署員の必死の消火作業 (資料提供:稲田写場)

05Infographics

数字で見る
呉大空襲

昭和20年3月19日以降、数度にわたり大空襲を受けた呉の被害が
データを通して浮かび上がります。

年ごとの警報発令回数(回)

昭和20年は65回の空襲警報

出典:『呉空襲記』中国新聞呉支社 編(1979年、中国新聞社)

大空襲で投入された米軍戦闘機の数(機)

7月28日は1060機が投入

※グラマンなど艦載機を主体とした214機
出典:Yahoo! JAPAN『未来に残す 戦争の記憶』(時事通信社の取材によるもの)

各エリアに落とされた爆弾の量(個)

市街地に80110の焼夷弾が落とされた

出典:『呉空襲記』中国新聞呉支社 編(1979年、中国新聞社)
原典は『新編広島県警察史』広島県警察史編修委員会 編(1954年、広島県警察連絡協議会)より

軍施設と市街地の死傷者数の割合(3/19~7/28)

市街地での死傷者が58%

出典:Yahoo! JAPAN『未来に残す 戦争の記憶』(時事通信社の取材によるもの)

06Afterwards

呉大空襲と
その後

呉は壊滅し、軍港の機能を失いました。それは明治から続いた軍港としての歴史の終焉でした。焼け跡に残された市民は、敗戦、占領、失業、食糧難で、ぼうぜん自失となりましたが、戦後、軍艦建造で培った高い技術を核として、復興を果たしました。現在も、軍港時代の面影を残す呉の街角には慰霊碑や戦跡遺構があります。空襲の日に鳴り響く黙とうのサイレン。戦後74年経っても、呉の街は戦争の記憶を忘れていません。

市街地の写真
何もかも焼かれ、壊滅的な被害を受けた市街地 (資料提供:呉市文化スポーツ部文化振興課)
慰霊碑の写真
昭和20年6月22日の呉海軍工廠への空襲で亡くなった、工員、女子挺身隊、動員学徒、軍人476名の慰霊碑

資料提供:呉市文化スポーツ部文化振興課

カラーで見る呉空襲