海軍とともに栄えた
酒造 三宅本店
「千福」で有名な三宅本店は、海軍へお酒を納品していました。従来、日本酒は1年酒とされ、暑さに弱く変質するとされていました。三宅本店のお酒を満載した軍艦「浅間」と練習艦隊が7カ月間の長い航海に出ます。お酒は、赤道を2度通過しても変質せず、少しも味が変わっていなかったため高い評価をうけ、海軍から品質証明書が贈られました。
戦艦「大和」のふるさと―呉。かつて日本最大の海軍工廠※を擁し、一大軍港都市として栄えた広島県呉は、戦時中に数度の大空襲を受けました。軍港、工廠、市街地が破壊され、多くの市民が犠牲になりました。その時、呉でなにが起こったのか。街の繁栄と空襲の実像に迫ります。
※工廠…軍需工場のこと
明治政府は明治22年、呉に鎮守府※を開庁しました。周囲を山と島に囲まれた呉湾は、軍港として理想的な地形でした。静かな漁村・農村だった呉は、港と市街地が形成され、一気に「海軍の街」として発展していきます。軍艦や兵器を造る海軍工廠も拡張され工員数も増加、工廠内には列車が走り、建艦、改修工事などとフル稼働でした。国防につながる工廠で働くことは彼らの誇りとなり、工廠勤務の男性は女性に人気でした。
※鎮守府…艦隊の根拠地となる軍港と、兵員育成や物資補給を統括する機関
出典:『昭和造船史(第一巻)』日本造船学会 編(1977年、原書房)
2万人だった呉の人口は最大40万人まで急増しました。海軍軍人、工廠の工員には独身者が多く、常に男性人口が女性人口を上回っていたそうです。娯楽施設も立ち並び、劇場、寄席、映画館、旅館、料亭、カフェー・喫茶店もつぎつぎと開店します。街は大いに賑わい、活気にあふれ「景気は呉工廠から」と報道されるほどでした。
街では、海軍団子、軍港煎餅、戦勝餅などの菓子が売られ、艦隊入港時には、「海の勇士歓迎」「祝無敵艦隊入港」のビラや立て看板が市中に掲げられました。また、海軍軍人や関係者などの住宅不足が深刻な問題だったため、土地を持つ民間の資産家は市街地に住宅を建て、彼らに貸し、商売をしていました。市民と海軍は常に密接な関係でした。
「千福」で有名な三宅本店は、海軍へお酒を納品していました。従来、日本酒は1年酒とされ、暑さに弱く変質するとされていました。三宅本店のお酒を満載した軍艦「浅間」と練習艦隊が7カ月間の長い航海に出ます。お酒は、赤道を2度通過しても変質せず、少しも味が変わっていなかったため高い評価をうけ、海軍から品質証明書が贈られました。
昭和20年3月19日、呉軍港が空襲にあいます。5月5日に広の第11空廠、6月22日には呉工廠造兵部門が猛爆されました。市民に大きな被害をもたらしたのは、7月1日深夜から2日未明にかけての市街地への焼夷弾による無差別爆撃で、一夜にして街は焼野原に。7月24日、7月25日、7月28日と複数回にわたり、停泊中の軍艦が攻撃され、呉軍港は軍艦の墓場となってしまいました。
昭和20年3月19日以降、数度にわたり大空襲を受けた呉の被害が
データを通して浮かび上がります。
出典:『呉空襲記』中国新聞呉支社 編(1979年、中国新聞社)
※グラマンなど艦載機を主体とした214機
出典:Yahoo! JAPAN『未来に残す 戦争の記憶』(時事通信社の取材によるもの)
出典:『呉空襲記』中国新聞呉支社 編(1979年、中国新聞社)
原典は『新編広島県警察史』広島県警察史編修委員会 編(1954年、広島県警察連絡協議会)より
出典:Yahoo! JAPAN『未来に残す 戦争の記憶』(時事通信社の取材によるもの)
呉は壊滅し、軍港の機能を失いました。それは明治から続いた軍港としての歴史の終焉でした。焼け跡に残された市民は、敗戦、占領、失業、食糧難で、ぼうぜん自失となりましたが、戦後、軍艦建造で培った高い技術を核として、復興を果たしました。現在も、軍港時代の面影を残す呉の街角には慰霊碑や戦跡遺構があります。空襲の日に鳴り響く黙とうのサイレン。戦後74年経っても、呉の街は戦争の記憶を忘れていません。
資料提供:呉市文化スポーツ部文化振興課