太平洋戦争は、日本陸軍による、英領マレー半島上陸と海軍機動部隊によるアメリカ・ハワイの真珠湾への奇襲攻撃で幕を開けました。
1940年頃から日中戦争や日独伊三国同盟をめぐって日米の対立が深まる中、日米交渉と並行して軍部は開戦準備を始めました。海軍では、連合艦隊の山本五十六司令長官が開戦直後に真珠湾を拠点とする米太平洋艦隊に奇襲攻撃で痛撃を与える作戦を打ち出しました。山本長官は、日本を遥かに上回るアメリカの工業生産力を熟知しており、戦争が長期化すれば到底勝ち目がないことを知っていました。そのため日米戦に反対していました。
しかし、開戦が避けられないならアメリカ海軍にできる早く大きな被害を与えて早期に講和に持ち込むという筋書きを山本長官は考えたのです。海軍軍令部は、この作戦では失敗すれば日本海軍にとって虎の子の空母を何隻も(山本長官の作戦案では日本が保有する空母10隻のうち6隻を動員)失いかねない、大博打であると強く反対しました。日本からハワイまで海軍の大部隊が見つかることなくハワイ沖にたどりつけるのかが最大の問題でした。見つかって反撃を受け大きな損失を出せば、一気に戦争の継続が難しくなるからです。しかし、山本長官は、この作戦を認めてもらえないのなら長官を辞任するとまで海軍の首脳に訴えました。そのため軍令部総長など首脳部はこの作戦を受け入れたのです。
真珠湾は、水深が極端に浅いため、奇襲攻撃に成功しても主要な武器である魚雷攻撃が失敗することが懸念されていました。
連合艦隊は、鹿児島の錦江湾などを真珠湾に見立てて魚雷投下の猛訓練を実施、さらに海軍は水深が浅い真珠湾でも海底に潜ってしまわないように改良を加えた最新の魚雷の開発を行い、1941年11月26日、真珠湾に向けて北海道千島の単冠湾を密かに出ました。
12月8日(日本時間)未明、見つかることなくハワイ近海に接近して6隻の空母から二波にわたって爆撃機、雷撃機、戦闘機を発進させて真珠湾上空に侵入、米軍艦船、飛行場を襲ったのです。この奇襲攻撃で湾内にいた戦艦8隻のうち4隻が撃沈された上に、200機以上の航空機が破壊されました。米軍側の戦死者は2300人に上りました。日本側の損失は29機の航空機と5隻の小型潜水艦だけでした。山本長官の賭けは成功したのです。
しかし、宣戦布告のないままの奇襲にアメリカ側は、「騙し討ち」だとして即座に日本に宣戦を布告、さらに欧州戦線にも参戦をすることを決めて第二次世界大戦は一気に拡大することになりました。日本は自分たちが始めた戦争を一体どこで止めるのかという戦略がなく、泥沼化して行ったのです。アメリカの残存した海軍力(特に空母)を壊滅させることを狙いにした翌1942年6月のミッドウェー海戦では、山本長官は返り討ちにあい真珠湾を攻撃した空母の4隻を失ったのです。ここから日本は敗勢に傾くのです。さらにその1年後、山本長官は航空機での移動中に、情報を察知した米軍に攻撃されて戦死しました。